300.【小説】潮騒の港 -ひかりの海-1
あらすじ:
港町を巡りながら写真を撮る男・九鬼慶彦。
かつて家族と過ごした港町で、いまは一人、静かな旅を続けている。
横浜で離れて暮らす中学生の娘・美佳。言葉を交わすことも少なくなったが、ふとした一通の手紙をきっかけに、慶彦の旅は“過去”と“いま”を結ぶ旅へと変わっていく。
舞台は神戸、横浜、門司港、広島、そして湘南──
各地で出会う人々と風景が、失われかけた記憶をやさしく照らし出す。
写真に刻まれた、灯りのような一瞬。
すれ違いながらも確かに繋がる父娘の想い。
やがて一枚の絵葉書が、小さな未来への希望を灯す。
写真と記憶、時間と親子。
海と光に導かれるように、ふたりは再び出会い直す──
静かであたたかな、“再会”の物語。
第一話 神戸港(前編) ─ 港の風を歩く ─
港の風は、少し湿っていた。
肩に掛けたカメラの重さが、やけに意識にのぼる。
九鬼慶彦(よしひこ)は、ただ歩いていた。
父の見舞いを終え、帰り道にふと港まで足を伸ばしただけだ。特に撮るつもりはなかったが、職業柄、どうしてもカメラを携えてしまう。
神社の参道沿い──大楠の横にある実家は、祖父の代から続く写真館だった。数年前に看板は下ろしたものの、今も「九鬼写真館」のまま残っている。
寡黙な父は相変わらずそこにいて、社交的な母は町内会やダンス教室で忙しそうにしている。
慶彦が家を出た頃と、何ひとつ変わっていない気がした。
東京にいた頃、華やかなブランド広告の世界で写真を撮っていた。
Cartier, GUCCI, PUCCI──ヨーロッパの名だたるハイブランド。
光と影が完璧に設計された世界。
その中で、彼はシャッターを切り続けた。やがてその腕は評価され、東京コレクションのランウェイ。
その奥に浮かぶモデルの表情──冷ややかな微笑みと、ひとつひとつに意味を背負わせた衣装の流れ。
あの世界は、完成されていた。
だが、だからこそ、息苦しさを覚えるようになっていった。
今はただ、歩きながら景色を見ている。構図も、光も、意識していない。
ただ──見る。
メリケンパークの芝生の上では、若いカップルが肩を寄せ合っていた。
その隣では、小さな子供を連れた夫婦がピクニックシートを広げている。
慶彦は、足を止めた。
視線の先の子どもの笑顔が、ファインダー越しでなくとも鮮やかに映った。
思わず肩のカメラに手を伸ばしたが──やめた。
今はまだ、そういう写真を撮るべきではない気がした。
少し歩いて、港の奥へと向かう。
オリエンタルホテルの白い半円が視界に入る。その向こう、岸壁には大型客船「日本丸」が寄港していた。
潮の匂いとともに、観光客のざわめきが微かに漂ってくる。
さらに歩を進めると、遊覧船のチケット売り場が見えてきた。
並んでいるのは家族連れやカップルたち。その光景を見ながら、ふと慶彦は思う。
──観光客として、この船に乗ってみるのも悪くないかもしれない。
ただの旅人の気分で、港の景色を切り取ってみるのも──。
気づけば、彼の足はチケット売り場へと向かっていた。
創作秘話:
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