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ふりかえれば、いつも分岐点⑦|管理職昇進研修で前向きになれた話

第6話では、フランス語ゼロから1年で外交官として渡仏した話を書きました。
今回はその続き。
3年間のフランス勤務を終えて帰国した、36歳の春の話です。

管理職、それは洗脳の時?

「管理職への洗脳が始まる。でも、そうはさせない。」

矯正研修所の門をくぐる時、私は本気でそう思っていました。

15年間(3年ほど浮世離れしましたが)、現場の法務教官として走ってきました。
少年院の子どもたちと向き合い、夜勤の灯りの下で誰かの人生に立ち会い、自分はこの仕事を一生続けるのだと信じていた人間です。
それが、6か月の合宿研修で管理職予備軍に仕立て上げられる。
気が進むはずがありませんでした。

ところが、ふたを開けてみると、私はそこで前向きになれたのです。

「おかしら」と呼ばれる、バランスボール椅子に座る教官に出会って。

10年ぶりに再会した同期と、若手だった頃のように毎日を過ごして。

研修が終わる頃には、「管理職の道も、悪くないかもしれない」と本気で思えるようになっていたのです。

「生涯現場」と決めていた私が、研修所に向かった理由

そもそも、私は管理職になるつもりがありませんでした。

法務教官として採用されたその日から、私は現場で生涯を終えるつもりでいました。
子どもたちと向き合う仕事こそが、自分の使命だと信じていたからです。

ところが、管理職の道を歩む先輩たちを見ていて、どうしても受け入れられないものがありました。

管理職になると、2年か3年で異動を繰り返します。
勤務先のことも、職員のことも、深く知らないまま次の場所へ。
「在職中、無事であれば順当に昇進できる」と語る上司の保守的な空気にも、強く反発を覚えていました。

私はそんな道には進みたくない。
ずっとそう思っていました。

ところが、フランスでの3年間が、私の中の何かを変えました。

外交官として大使館で働く中で、ふと考えたのです。
管理職になれば、また国際的な役職に就くチャンスが回ってくるかもしれない。
現場の少年たちのもとに戻る道だけでなく、もう一度、世界と関わる道もあるのではないか。

そう考えて、帰国後すぐに管理職昇進研修への参加を決めました。

実を言えば、もう一つ理由がありました。
「管理職昇進研修に参加しなくても、いずれ管理職にさせられる時代になった」と、人づてに聞かされたからです。
管理職にさせられるくらいなら、自分で選んで進む方がいい。
そんな反骨精神もありました。
3年間のブランクの後で現場に戻ることへの不安もありました。
現場を離れることで、いろいろなことを考えたのです。

ちょうど、キャリアが変わるタイミングだったのかもしれません。
これまで頑なに拒んできた管理職の道も、今なら受け入れられるのではないか。
そう自分に言い聞かせました。

それでも、研修が始まる直前の私の気持ちは、決して明るいものではありませんでした。

「管理職として振る舞うための洗脳が、これから始まるのだろう」

そんな警戒心を抱えたまま、私は矯正研修所の門をくぐったのです。

「おかしら」と呼んでくれ

研修生活が始まって、まもなく。

「いい研修だな」と、私は感じ始めていました。

矯正研修所の教官たちは、想像とはまったく違いました。
物腰は柔らかく、研修生との距離が近い。
一方で、研修仲間たちも自分の仕事に誇りを持ち、これからの矯正の世界を良くしていきたいと本気で考えている人ばかりでした。

なかでも、私の指導教官に当たってくださった方は、群を抜いて柔軟な人でした。

執務室を覗くと、椅子の代わりにバランスボールに座っている。
心理技官という仕事柄、物腰は穏やかなのですが、若い頃は大食いと大酒飲みで名を売ったというくらい豪快なところがある人でした。

そして、口癖がありました。

「マッチョ」という言葉を、形容詞として随所に使うのです。

「マッチョ」は、筋肉質という意味ではありません。
タフでやりがいがあって、それでいて骨の折れる仕事や問題のことを、この方はそう呼んでいたのです。
人に対しても使っていたな。これは普通か。
難しい話を前にしても、暗くなることがない。
むしろ少しユーモアを乗せて受け止める。

通常、教官に対しては「○○教官」と呼ぶのが研修所の慣習でした。

ところが、この方は違いました。
「おかしら(お頭)と呼んでくれ」と、私たちに言うのです。

由来を聞いたわけではありません。
ただ、私も所属した研修班10班のメンバーが「おかしら」と呼んでいるうちに、不思議と仲間意識のようなものが生まれていきました。
「おかしら」と呼ばせるのは、研修生との心の距離を縮めるための工夫だったのではないか。
私はそう推測しています。
真実は今もわかりません。

そして、もう一つ、おかしらがよく口にしていた言葉があります。

「難しく考えなくていいんだよ」

私たちの仕事は、必要以上に問題意識を抱え込みがちです。
自分たちの将来、家族との関係、職員同士の軋轢。
考えれば考えるほど、心が追い込まれていきます。

おかしらの「難しく考えなくていいんだよ」は、そんな私たちの肩の力を抜くための声かけでした。
3年間過ごしたフランスの、あの良い意味で緩い空気と、どこか通じるものがありました。

10年ぶりに再開した、九州男児の同期

研修班には、もう一つ、私の心を動かす出会いがありました。

10年前、福岡で同じ研修を受けた旧知の同期が、同じ研修に参加していたのです。

10年ぶりに同じ釜の飯を食う関係に戻った時、私は若手職員だった頃の自分に戻ったような気がしました。

不思議なものです。
10年経って、お互い15年のキャリアを背負ったベテランになっていても、20代の頃の気安さが一瞬で戻ってくる。

彼との再会で、私はある週末のことを思い出していました。

5年目の頃、若手研修で福岡に来ていた私を、地元だった彼が熊本県の黒川温泉に連れていってくれたことがあるのです。

仲のよかった同期と3人で、福岡のおいしいお店で夕食を取り、その後、車で熊本の山あいまで走りました。
たどり着いた野外温泉は、お金を入れてスイッチを押すと、お湯が湧いてくるという仕組みのものでした。
そんな温泉に入ったことがなかった私は、ただただ感心したことを覚えています。

翌日、彼の自宅にお邪魔した時のことでした。

彼は1本のビデオを取り出して、私たちに見せました。
当時の話なので、まだVHSのテープです。
猿が子どもを育てる上で、愛着関係がどれほど大切かを描いた、ドキュメンタリーでした。

一緒に画面を見ながら、彼は博多(筑豊?)弁でぽつりと言いました。

「あいつら(少年たち)、愛着関係に飢えとる奴が多かろう? やけん、俺たちがちょっとでも擬似体験させてやらんとね」

私は、その言葉に、彼の少年たちへの愛情の深さを見た気がしました。
ひそかに私は、彼のことを「せごどん(西郷隆盛)」のような人だと思っていました。
体格といい、豪快な性格といい、そんな雰囲気を醸し出す人だったのです。

それから10年。

管理職昇進研修の研修班で再会した彼は、何も変わっていませんでした。
若手の研修員たちの面倒をよく見て、悩んでいる仲間にはバーンと背中を叩いて気合を入れる。
ザ・九州男児の姿勢のまま、自然に若い世代に寄り添っていました。

「ああ、彼は今もちゃんと、あの頃のままなのだ」

そう思った瞬間、私の中の何かが、静かにほどけていきました。

「ただ、私の心が頑なだっただけ」

特別な瞬間があったわけではありません。

ある日、ある言葉で、世界が変わったわけではない。

ただ、徐々に、ほぐされていったのです。

研修前に私が想像していた「教官」や「上司」の像と、実際に接した教官たちの良い意味での人間くささ。
それが、とても心地よかった。

おかしらのように、心理技官として穏やかでありながら、「マッチョな案件だな」と笑い飛ばせる人。

10年前と変わらず、若手に寄り添う九州男児の同期。

研修班には、私と同じく十数年のキャリアを持つ仲間たちもいました。
若手研修員とはどうしてもジェネレーションギャップを感じてしまうのですが、彼らとの毎日のやりとりも、私の心をゆっくりと雪解けに向かわせてくれました。

そして気づいたのです。

管理職への道を頑なに拒んでいたのは、組織のせいでも上司たちのせいでもなく、ただ自分の心が頑なだっただけだったのだと。

毎週末、私は自宅に帰省していました。
研修所と自宅との程よい距離感が、自分を客観視させてくれたのかもしれません。
日曜の夜、研修所に戻るたびに、同期と、仲間たちの顔を見ることが、少しずつ楽しみになっていました。

「おかしらのような上司になりたい」

研修も終盤に近づいた頃、私はこう考えるようになっていました。

「おかしらのような上司に、自分もなりたい」

部下との心の垣根を、自分から下げる人。
同時に、上司として尊敬される人。
そんな人にならなりたい。

「マッチョな案件だな」と笑って、「難しく考えなくていいんだよ」と肩を叩く。
そんな上司の下なら、現場の職員たちはもう少し息がしやすくなるのではないか。

15年間、私はそういう上司にあまり出会えませんでした。
何人かの方はとても尊敬できる存在でしたが、正直そう思えない人の方が圧倒的に多かったです。
(現場職員の中で「バ幹部」と呼んでいたのは秘密です)

だとすれば、自分がそういう上司になるしかない。

管理職の道は、もしかしたら、悪くないのかもしれない。

研修に参加してよかった。
心からそう思っていました。

ふりかえれば、ここも分岐点

研修が終わりに近づいた頃、私は確かに前向きになっていました。

「管理職への洗脳」だと身構えて入った6か月間が、私の中で「おかしらのように生きたい」という新しい志に変わっていたのです。

3年間のフランスでの経験。
帰国後の不安。
15年現場で生きてきたベテランの意地。
それらすべてが、矯正研修所での6か月で、ゆっくりと一つの方向にまとまっていく感覚がありました。

人の心は、誰かの人間くささによって、ほぐされる。

頑なだった自分を、誰かが少しずつ溶かしてくれる。

私は、研修所の食堂で、教官室のバランスボールの隣で、研修班の夜の語らいの場で、それを体感した6か月でした。

ふりかえれば、ここも、ひとつの分岐点だったのだと思います。

次回は、その6か月の研修が終わりを迎えた、ある日の話をしようと思います。
研修終了とともに、私の心がどう変わっていったか。
続きにお付き合いいただければ嬉しいです。


このnoteは、連載「ふりかえれば、いつも分岐点」第7話です。

【全話マップ】
フランスでモンテッソーリを学んだ私が、実は20代で少年院にいた理由
「お前、少年院に入るぞ」と言われた悪ガキが、本当に少年院に入った話
印鑑すら持っていなかった社会人初日、運命の妻と出会った話
番外編①あわや「成田離婚」
双子のパパになった日
番外編②性格も好みも全然違う双子
ヨーロッパで見たモンテッソーリの原風景
番外編③5年越しのパリ、7年かけて取り戻すフランス語の旋律
少年院の教官だった私が、フランス語ゼロから1年で外交官として渡仏した話
管理職昇進研修で前向きになれた話(本記事)
「こんなところに来とうはなかった」 — 想像と違う未来が始まった日
想像と違う未来と絶望
ラストダンジョンでの勤務、9月の落とし穴
救急搬送され、ようやく素直になれた私
法務教官として輝いた、最後の2年
(以下、毎週日曜朝7時に続きます)


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