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ふりかえれば、いつも分岐点⑥|少年院の教官だった私が、フランス語ゼロから1年で外交官として渡仏した話

第5話までは、フランスに渡ってからの話を書いてきました。
今回は時間軸を少しだけ巻き戻して、そもそもなぜ私がフランスに行くことになったのか、その始まりの話です。

2009年7月。

私は家族旅行で、世界遺産のミニチュアを集めた公園にいました。

凱旋門のミニチュアの前で、家族の写真を撮った、その直後でした。
私の携帯電話が鳴ったのです。

画面を見ると、職場の電話番号。

「夏季休暇中なのに、まさか何か緊急の案件か?」
と、一瞬身構えながら、私は電話に出ました。
電話の相手は、課長でした。

「来週、東京出張ね。外務省に出向する話が来ているから、法務省で面接があるよ」

頭の中が、真っ白になりました。

そのとき私は、文字通り目を白黒させたと思います。

頭に浮かんだのは、なぜか「フランスって言えば、ナポレオンかな?」という、のん気な絵でした。
たぶん、直前に見た凱旋門のミニチュアが、脳に残っていたのです。

電話を切ったあと、横にいた妻に、まだ動揺の残る声で伝えました。

「あのさ、もしかしたら、フランスに行くかもしれない」

何かもっと言葉を選んで伝えるべきだったかもしれません。
でも、勢いで口に出してしまったのです。

妻は、私の顔をじっと見て、こう言いました。

「え? さっき見た凱旋門、また実際に見れるの?」

ミーハーに、心底嬉しそうに。

そのおかげで、私の心はすこしずつ落ち着いていきました。
妻のこういう反応に、私は人生で何度も救われています。

それでも、不安は襲ってきた

正直に告白します。

そのとき、私のフランス語の知識は、完全にゼロでした。

大学の第二外国語はドイツ語でしたし、新婚旅行でパリに行ったときも、妻と「ありがとうって、『ボンジュール』だっけ?『メルシー』だっけ?」と、とんちんかんな会話をしていたくらいです。

そんな状態の私が、果たしてフランスで生活できるのか。
仕事で行くのに、周りに迷惑をかけるのではないか。

家族旅行の余韻が消えた頃から、不安が一気に襲ってきました。

ただ、課長の電話の口調から、これは「面接」とは名ばかりの、ほぼ決定事項であることも分かっていました。

ここから、私の人生で最も濃密な1年が始まります。

1日12時間、フランス語にどっぷり浸かった1年

1ヶ月半の特別な語学研修

ありがたいことに、法務省は1ヶ月半の語学研修を受けさせてくれました。

仕事を完全に離れて、語学学校に通う時間が確保されたのです。
これは、外務省出向というポストだからこその、特別な計らいでした。

語学研修が行われるのは、法務省が指定した都内のある語学学校。
都内の法務省研修所で生活しながら、毎日通勤しました。
語学学校では、1日8時間、みっちりレッスンを受けました。

それでも、まったく足りないと感じました。

帰寮後も、夜遅くまで自己学習を続けました。
1日12時間以上、フランス語にどっぷり浸かる日々が続きました。

突然頭に舞い降りた、フランス語のフレーズ

研修開始から1か月が経った、ある日のことです。

頭の中で、突然、フランス語のフレーズが「すっ」と出てきた瞬間があったのです。

それまで、英語を話すときには、テレビのチャンネルを変えるように、意識的に「英語モード」に切り替える必要がありました。
フランス語も、最初の数週間はそうでした。
イメージすると、昔のダイヤルをガチャガチャ回す、アナログテレビのようなものだったのです。

ところが、ある日。

切り替えを意識しなくても、自然にフレーズが出たのです。

このときの感動は、本当に大きかった。
私の人生で、いちばん「努力した分だけ報われた」と感じた瞬間かもしれません。

ようやく「日常会話レベル」に到達

語学研修の終了時、私は仏検3級程度のレベルに達していました。
ただし、その技能は、日常会話のレベル。
仕事で使うには、まったく足りませんでした。
そこから1年、独学でビジネスレベルまで引き上げる必要がありました。

正直、絶望的な気持ちでした。

それでも、「このままフランス語が話せなければ、フランスで生活なんてできない」と、不退転の覚悟を決めた瞬間でもありました。

仏検2級取得後、「勝って兜の緒を締める」気持ちに

妻は、私以上に外国語が苦手なタイプの人でした。

そんな妻が、心を決めて個人レッスンに通い始めました。

「パリのおしゃれなカフェや、デパートの『Galeries Lafayette』にまた行けると思うと、テンションが上がる」のだそうです。

ミーハーな動機で、夫婦そろってフランス語学習に向き合った日々。
ただし、私は渡仏前の1年間、法務省や外務省で業務に関する各種研修を受けるため、都内に単身赴任していました。

それぞれ、別の場所で、同じ目的に向かって努力する。

今思えば、家族で一緒に「これから行く土地」に向き合えたのは、不安を分け合うことでもあったと思います。

そして、渡仏直前の2011年2月。

私は、フランス語検定2級に合格しました。

渡仏までに到達する目標として設定していたラインに、ぎりぎり届いた。
「これで、フランスに行ける」。

それでも、心は決して浮かれませんでした。

仏検2級は、あくまでスタート地点。
たとえ、仏検1級を取得していたとしても、実際のコミュニケーションやビジネスの場面では、段違いのレベルが求められます。

あとは、現地でのサバイバルで経験を積むしかない。

「勝って兜の緒を締める」というのは、こういう気持ちのことを言うのかもしれません。

ドーヴィル、5つ星ホテルの交渉拠点

渡仏した日から、わずか1ヶ月半。

私は、G8サミットの交渉現場に立っていました。

舞台は、フランス北部の海辺の町、Deauville(ドーヴィル)。
パリの西約200kmの場所にあるその街は、「パリ21区」と呼ばれるほど、パリジェンヌに愛されているリゾート地です。
東京の人から見たら湘南とか江ノ島?
海辺の素敵な田舎町、と表現するのが、いちばん近いかもしれません。

G8の会場はドーヴィルの国際会議場でしたが、フランス側アタッシェとの主な交渉拠点は、5つ星ホテル「Hôtel Barrière Le Normandy」でした。
パリジェンヌ御用達のリゾート地が誇る、アンティークでフランス情緒漂うホテルでした(カジノまである!)。

日本側の交渉官。
そんな大役を引き受ける話は、渡仏直前に前任者から聞かされていました。

「熨斗をつけて返したい」と本気で思いました。
それでも、行くからにはやるしかない。
覚悟を決めて、ドーヴィルに向かいました。

仏検2級。
1ヶ月半、フランス語漬けの毎日。
1年間の独学。
そのすべてを、ここで使い切る覚悟でした。
あとで振り返れば、G8はフランス生活におけるほんのプロローグに過ぎなかったのですが、それはまたいずれか。

顔パスで通された、セキュリティチェック

G8の交渉拠点では、毎日、厳重なセキュリティチェックがありました。

入場許可バッジを持つ者だけが、持ち物すべてを金属探知機に通し、さらにボディチェックを受けて、ようやく中に入れる仕組みです。

ある日、私はその許可バッジを、別の日本側アタッシェに貸してしまっていました。
しかも、スーツのベルトには無線機を2台装着し、ポケットには携帯電話を2台所持。
本来であれば、絶対に入場できない状況でした。
怪し過ぎます。

ところが、警備担当者は私の顔を見るなり、こう言ったのです。

「お前、今日も来たのか。ご苦労さん」

そして、私を顔パスで通してくれました。

正直、ぎょっとしました。
ぎょっとしながら、同時に、心の奥がじんわり温かくなりました。

数週間とはいえ、毎日同じ場所を出入りするうちに、現地担当者との間に、確かな人間関係が築かれていたのです。
毎日何回もセキュリティチェックを通り、ピーピー警報音が鳴るごとにやり直し、「あ、ごめん、無線機だ」とか言っていました。
拙いフランス語でも、毎日顔を合わせて、目を見て挨拶して、片言で会話する。
そのくり返しが、こんな形で報われるとは。

(念のため申し添えると、今はテロの危険も高まっていますから、こんなことは絶対にあり得ません。あの時代だからこそ、の出来事です。)

「お前が言いたかったのは、このことか!」

別の日のことです。

私は、フランス側担当者と、ある事務調整をしようとしていました。
具体的な内容は、守秘義務で書けません。

問題は、私が「VIPの車列」と「二国間会談」という単語を、まだ知らなかったことでした。

仏検2級レベルでは、こういう実務単語は、出てこないのです。

仕方ないので、私は連想ゲームのように、知っている単語を組み合わせて、伝えようと試みました。

「えっと、その、お客様の車が、何台か、続いて、移動するときの…」

「うーん?」

「2つの国の代表が、ちょっと2人だけで、話をする場面の…」

「ノン、ノン。何を言っているのか、分からない」

しばらく粘っても、まったく伝わりません。

「もう一度、日本側のロジ拠点に戻って、単語を確認してから出直そう」

私がそう思った、まさにその瞬間。

フランス人担当者の目が、ぱっと開きました。

「Oh là là(なんてこった)! お前が言いたかったのは、このことか!」

そう叫んで、彼は笑いながら、私の背中をバンと叩きました。

二人で、大笑いしました。

これが、私が生涯忘れない経験のひとつになりました。

「拙くても本気なら、相手は聞いてくれる」。

その教訓を、私はこのとき身をもって知ったのです。

「On se reverra.」 (また会おう)

G8のすべての日程が終わり、撤収の時。

私は、お世話になったフランス側担当者一人ひとりに、挨拶に行きました。

その中の一人。
毎日いちばん近くで仕事をしてくれた担当者の前に立ったとき、彼は、涙ぐみながら、こう言いました。

「On se reverra.」

その瞬間、私はその言葉の意味が分かりませんでした。

仏検2級レベルの私には、文字通り「音」として響いただけでした。
それでも、彼の表情と、声の温度から、何か大事なことを言っているのだと感じました。

私は、その音を、できるだけそのまま、耳に残しました。

撤収の車で、パリに戻る道中。
私は上司に尋ねました。

「『On se reverra.』って、どういう意味でしょうか」

上司は、少しだけ間を置いて、こう答えました。

「『また会おう』、っていう意味だよ」

その意味を知ったとき、私はあの担当者の表情を、もう一度、思い浮かべました。

涙ぐみながら「また会おう」と言ってくれた、その意味。

私は、車の窓の外を流れるノルマンディーの景色を見ながら、その言葉を胸の奥に、そっとしまいました。

そして、静かに、涙が出ました。

拙くても、本気なら、相手は聞いてくれる

あれから、15年以上の時間が経ちました。

フランス語ゼロから始まった私のフランス語人生は、いまも続いています。番外編③で書いたDuolingo 2550日も、その続きです。

あの1年で身についたのは、フランス語の単語や文法、ではありません。

「拙くても、本気なら、相手は聞いてくれる」。

この一つの確信です。

その後の人生で、何度も心の支えになりました。
仕事で初対面の相手と向き合うとき。
何かを伝えたくて、うまく言葉にならないとき。
あの日、ドーヴィルで、フランス人担当者が背中を叩いて一緒に笑った、あの瞬間を、思い出します。

そして、ふりかえれば。

凱旋門のミニチュアの前で電話を受けた、あの2009年7月の夏。

あの瞬間が、私にとっての、ひとつの分岐点でした。


ここまでお読みいただきありがとうございました。

あなたの人生にも、「拙かったけれど、相手が聞いてくれた」経験はありますか?
小さなことでもよければ、コメントで教えてください。

それでは、また次回。


このnoteは、連載「ふりかえれば、いつも分岐点」第6話です。

【全話マップ】
フランスでモンテッソーリを学んだ私が、実は20代で少年院にいた理由
「お前、少年院に入るぞ」と言われた悪ガキが、本当に少年院に入った話
印鑑すら持っていなかった社会人初日、運命の妻と出会った話
番外編①あわや「成田離婚」
双子のパパになった日
番外編②性格も好みも全然違う双子
ヨーロッパで見たモンテッソーリの原風景
番外編③5年越しのパリ、7年かけて取り戻すフランス語の旋律
少年院の教官だった私が、フランス語ゼロから1年で外交官として渡仏した話(本記事)
管理職昇進研修で前向きになれた話
「こんなところに来とうはなかった」 — 想像と違う未来が始まった日
想像と違う未来と絶望
ラストダンジョンでの勤務、9月の落とし穴
救急搬送され、ようやく素直になれた私
法務教官として輝いた、最後の2年
(以下、毎週日曜朝7時に続きます)

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