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ふりかえれば、いつも分岐点⑫|法務教官として輝いた、最後の2年

2019年2月。

当直明けでへとへとになって帰宅しようとしていた、ある日のことです。

上司から、こう告げられました。

「ぐっち、4月からの異動の件やけど、刑事施設に変わったから」

「ああ、はい」

当直明けで、頭が回っていませんでした。
私は反射的に、そう答えていました。

帰宅して、仮眠を取り、目を覚ました瞬間。

胃の底から、声にならない叫びがせり上がってきました。

「え、また、刑事施設!?」

降格を保留にした、2016年9月の所長室。
あの時の選択が、ここで、こんな形で帰ってくるとは。

今日は、再びの運命の日に至るまでの、私の 「最後の輝き」 だった2年間の話をお届けします。

拝命施設に「ただいま」

時計を、少し戻します。

2017年4月。

第11話でお話しした「奈落の底」まで落ちて素直になれた私は、所長との対話を経て、少年施設への異動を強く希望しました。
そして、それが、叶ったのです。
しかも、慣れ親しんだ拝命施設に戻る形で。

7年ぶりの、拝命施設。

建物を見上げた時の、率直な感想は、こうでした。

「ああ、変わってないな」

帰省の道すがら、車で前を通りかかることは何度かありました。
だから、思っていたほどの「久しぶり」感は、ありませんでした。
フェンスが更新されていたり、敷地の用途が一部変わっていたりはしましたが、基本的な雰囲気は、私を送り出した日のままでした。

懐かしいと思う気持ちより、ほっとする気持ちの方が強かった。

そんな着任でした。

久しぶりに会う先輩たちもいました。
後輩たちも、ずいぶんと立場が上がっていました。
初めて会う職員もいました。
「変わったな」と感じる場面も、いくつかありました。

そんな中で印象的だったのは、私の新拝命の頃からお世話になっていた、ある先輩が上司になっていたことです。

その先輩は、倒れた経緯を含めて、私のことをよく知っていてくれました。
そして、復帰したばかりの私を、慮ってくださいました。

「無理せず、慣らし運転で行きや」

ありがたい言葉でした。

私自身も、復帰前に、脳血管のリスクが残っていることをきちんと伝え、しばらくは様子を見ながら勤務させてもらうことを、了承いただいていました。

異動を機に、心機一転、やり直す。

そう決めて、私はもう一度、法務教官としての日々を始めたのです。

ここが、自分の居場所だ

法務教官として、教育の現場に戻る。

それは、思っていた以上に、私を救ってくれました。

少年たちと、毎日、顔を合わせる。

他の教官たちと、個々の少年について議論する。

授業を組み立て、行事を運営し、現場で汗をかく。

そうしているうちに、自分の中から、活力のようなものが、ふつふつと、湧き上がってくるのを感じました。

「自然治癒」という言葉では足りない何かが、私の中で回復していました。
それはまるで、雨後の筍のよう。
若い力と、熱い情熱に触れることで、私の中で眠っていた心のマグマの温度が一気に上昇したのです。

私の基本姿勢はずっと、教官として少年のお手本になる「率先垂範」でした。

その姿勢に立ち戻ったとき、いつまでも情けない心身の状態でいるわけにはいかないという気持ちが、自然に湧いてきました。

身体が、健康を選び始めたのです。

そして、もう一つ。

新拝命の頃、「若手のエース」と言われ、頑張っていた私のことを、当時の先輩や後輩たちは覚えていてくれました。

7年の時を経て、私は、もう若手ではなく、中堅以上の立場になっていました。

それでも、
「ぐっち、また頼りにしとるよ」

そう言ってくれる先輩がいました。
後輩で、何かと相談に来てくれる人もいました。

その時、私はようやく、心の底からこう思いました。

「ここが、自分の居場所だ」

その感触に、私は、心も体も包み込まれていたのです。

「本省を見て来い」

幸せな1年が、過ぎていきました。
同僚によると、当直明けの私の笑顔は「この世で一番幸せ」というくらいの輝きを放っていたとか。
そんな日々が、一時中断する時が来たのです。

2018年2月頃のことです。

昔から、私のことを気にかけてくれていた上司から、声をかけられました。

「ぐっち、本省を見て来い」

法務本省、つまり、霞が関での 応援勤務 の話でした。

完全な異動ではありませんでした。
3か月だけ本省の業務を経験して、見聞を広げてほしいということ。

私自身は、健康面についてはかなり回復していました。
健診でも「異常なし」をいただいていました。

ただ、正直なところ本意ではありませんでした。
せっかく、拝命施設で居場所を取り戻したばかりだったのです。

それでも、3か月だけならと、お引き受けしました。

「研修のような気持ち」でした。

妻にも、相談しました。

「3か月だけだから」と伝えると、妻はこう言ってくれました。

「あなたが決めたことなら、応援するよ」

ありがたい家族でした。

息子たちも、拝命施設への帰任とともに、中学校1年生のタイミングで転校していました。
馴染むのは速かったようですが、思春期の入り口でいろいろ悩みもあったようです。
妻との関係も、少し難しい時期に差し掛かっていました。

そんな家族を残して、私は、3か月だけ霞が関で勤務しました。
正直、「3か月で良かった」と思いました。
詳細は避けますが、業務の感覚として、「何日もかけて、100点の答案を作る」ような仕事だと感じていました。
「70点から80点で出して、あとは手直ししてもらえばいいや」という私の感覚には全く合いませんでした。
学生時代も優秀だった方々は、きっと「100点を取れる喜び」で仕事をされていたのでしょう。
でも、私は「もう二度とここに来ることはないな」と感じていました。

その3か月が終わって、再び拝命施設に戻ってきたのです。

2年目、最後の春

戻ってきてからの1年弱が、私の「最後の輝き」の時間でした。

応援勤務で本省を経験したことで、見えるようになった景色がありました。 教官としての歩みは、確かに前進していました。
身体も、心も、回復していました。

その2年目の春、霞が関に行く前に、上司からこう告げられていました。

「ぐっち、来年はもう、本格的に異動の年やから。今年が、この施設での実質最後の1年や」

私は、こう思っていました。

「もう、自分は大丈夫だ。次の異動先でも、今度こそやっていけるはずだ」

根拠のない、安心感でした。

でも、その安心感の正体ははっきりしていました。

地元であり、法務教官としての生まれ故郷でもあるこの拝命施設だからこそ、感じられていた安心感だったのです。

その安心感は、一歩外に出れば、すぐに崩れる。

そんな自覚はまだありませんでした。

巧妙な罠

2019年1月。

異動の内示が、私のもとに届きました。

行き先は、別の少年施設。

「ついに来たか」とは思いましたが、すでに「今年が最後」と覚悟していたので、内示そのものは受け入れました。

ところが、その数日後、上司から追加の話がありました。

「ぐっち、異動先の少年施設やけど、職員官舎が改築中で、すぐには入れんのや」
「で、近隣に、刑事施設の官舎があってな。そこから、通勤してもらうことになる」

私の心に、小さな引っかかりが、生まれました。

「刑事施設…?」

かつての記憶が一瞬よぎりました。

でも、住居だけ借りて、別の施設に通勤するスタイルは、以前にも経験していました。
「官舎が違うだけ」と自分に言い聞かせて、了承しました。

その数日後でした。
2月になっていました。

冒頭の、当直明けの朝です。

「ぐっち、4月からの異動の件やけど、刑事施設の方に異動することになった」

ここで、もう一度、冒頭のシーンに戻ります。

当直明けで、頭が回っていなかった私は、反射的に「ああ、はい」と答えてしまいました。

そして、帰宅して、仮眠を取っていたのですが、あることがふっと頭に浮かび、飛び起きました。

「待って。これ、刑事施設『から通勤』じゃない」

「これは、刑事施設『への異動』だ」

最初の打診で「官舎を借りる」と言われ、次の打診で「刑事施設から通勤」と言われ、最後に「刑事施設への異動」へと、すり替えられていたのです。

いえ、おそらく、すり替えではありません。
最初から、刑事施設への異動だったのです。

ただ、私が受け入れやすいように、3段階のステップ に分けて伝えられていた。

それだけのことだったのでしょう。

「あの時、降格していたら」

私は、そのまま、職場に戻りました。

上司に、はっきりと、伝えました。

「すみません、この異動は、拒否させてください」

その時の上司の返事を、今でも、覚えています。

「ぐっち、今、お前が異動を拒否したら、お前の代わりに異動してくる人が、割を食うことになる」

そうでした。

私が拒否したら、組織の歯車は止まらない代わりに、別の誰かが、私の代わりにその場所へ送られる。

そんな迷惑を、誰かにかけるわけには、いきませんでした。

私は、泣く泣く、了承しました。
本当に、泣きました。
大の大人(?)が、2人の上司の前でおいおいと声をあげて。

その夜、家に帰る車のなかで、強い後悔の念が、襲ってきました。

「あの時、降格していたら」

2016年9月の、あの所長室。

「ぐっち、管理職は嫌か。降格するか」と、所長が言ってくださった、あの瞬間。

私は、「降格は、今は決断できないので、保留させてください」と答えました。

あの時、もし、降格を選んでいたら。

私は、ずっと、少年施設で、現場のイチ法務教官として勤務していたかもしれません。

私は、法務教官の仕事が、本当に大好きでした。
今でも続けていたかもしれません。

でも、もう、戻れません。

後悔先に立たず。

この言葉を身をもって知ったのは、その夜のことでした。

ふりかえれば、ここも分岐点

2017年4月から2019年4月までの、拝命施設での2年。

私が、法務教官として、もう一度、自分を取り戻した時間。

ここが、私の「最後の輝き」だったことに、その時には気づいていませんでした。

ふりかえれば、ここも、ひとつの分岐点でした。

そして、2019年4月から私を待っていたのは、刑事施設への異動と、家族を残しての 単身赴任の日々 でした。

次回は、その単身赴任の話と、その直前に起きた、もうひとつの大きな出来事についてお話しします。

「あの時、降格していたら」の後悔を抱えたまま、私の歩みはもうしばらく続きます。


このnoteは、連載「ふりかえれば、いつも分岐点」第12話です。

【全話マップ】
フランスでモンテッソーリを学んだ私が、実は20代で少年院にいた理由
「お前、少年院に入るぞ」と言われた悪ガキが、本当に少年院に入った話
印鑑すら持っていなかった社会人初日、運命の妻と出会った話
番外編①あわや「成田離婚」
双子のパパになった日
番外編②性格も好みも全然違う双子
ヨーロッパで見たモンテッソーリの原風景
番外編③5年越しのパリ、7年かけて取り戻すフランス語の旋律
少年院の教官だった私が、フランス語ゼロから1年で外交官として渡仏した話
管理職昇進研修で前向きになれた話
「こんなところに来とうはなかった」 — 想像と違う未来が始まった日
想像と違う未来と絶望
ラストダンジョンでの勤務、9月の落とし穴
救急搬送され、ようやく素直になれた私
法務教官として輝いた、最後の2年(本記事)
(以下、毎週日曜朝7時に続きます)

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