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ふりかえれば、いつも分岐点④|双子のパパになった日

これまでの3話と番外編①では、私が法務教官として働くようになり、妻と出会い、新婚旅行でぶつかった話を書きました。
今回はその続き。
二人だった家族が、四人になった日の話です。

あれは…サルだ。

新生児室の保育器の中で眠る我が子を初めて見た時、私は思わず声に出してしまいました。
両家の母に叱られたのは、言うまでもありません。
その十数年前、高校生の私は友人にこう話していたんです。
「オレも自分の子どもが双子だったらいいな」と。
人生は、こういう小さな願いを覚えているもののようです。
第4話は、私が双子のパパになった日と、そこから始まった「想像と現実の絶望的なギャップ」の話です。

第1話から読んでくださる方はこちらから
ぐっち回顧録①|フランスでモンテッソーリを学んだ私が、実は20代で少年院にいた理由

結婚2年目、「そろそろ」と話し始めた頃

結婚当初、私たちは20代前半。
「しばらく2人で仲良く暮らそう」と、子どもの予定はありませんでした。

ところが、結婚1年を過ぎた頃から、周囲の空気が変わってきます。
「孫の顔が見たい」
「結婚したら子どもができて、おかしくない頃よね?」

そんな言葉が、ぽつりぽつりと耳に入るようになりました。
そして妻と私も、自然と「そろそろかな?」と話すように。

そして、ある日の夜。
妻が私の方を向いて、こう言いました。
「ひょっとしたら、妊娠したかもしれない」

すぐにドラッグストアで妊娠検査薬を購入。
妻がテストして、結果を見せてくれました。
「+」のマーク。

私は思わず、声に出していました。
よっしゃー!

言葉にできない嬉しさが、こみ上げてきたのを覚えています。
妻と手を取り合って、「やったー!」と喜び合いました。

「2つに見える気がする」「ひょっとしたら?」

その後、産婦人科で正式に妊娠を告げられ、毎週の検診が始まりました。
ある検診の日、エコーを診ていた医師が、ぽつりとこう言ったんです。

「なんか2つに見えるような気がするんだよね。ただ、この時期は見え方が安定しないからね」

それ以上、医師は何も言いません。
私たちも「まさか、ね」と笑い合いました。

ところが、妊娠10週目くらいの検診で、医師が改めて告げたのです。
双子ですね

驚きながらも、嬉しかった。
そして、その瞬間、私はあることをふと思い出しました。

高校時代、同級生に双子が結構な割合でいて、友人にこう話していたんです。
オレも自分の子どもが双子だったらいいな

そんなに強く願っていたわけではない、軽口です。
でも、それが現実になった。
不思議な感情と、嬉しさが、同時にこみ上げました。

お腹の中で、それぞれの子が「リクエスト」していた

妊娠が進むにつれて、妻は強烈なつわりに襲われました。
食欲が一気に落ち、その代わりに「特定のものしか体が受け付けない」時期が交互にやってくるようになります。

ある時期は、「ハンバーガーが食べたい」と言って、それまで好きでもなかった肉類を毎日のように食べていました。
またある時期は、「ラムネしか体が受け付けない」と言って、ラムネばかり口にしていたのです。

妻と私は、「変なつわりだね」と笑い合っていました。

ところが、子どもたちが大きくなってから、その意味が分かるんです。
1人は肉類が大好きな子に育ちました。
もう1人はラムネが大好きな子に育ちました。

妻と私は、いつかこう話しました。
あの頃はそれぞれの子が、欲しいものをリクエストしていたんだね。

不思議な話ですが、本当の話です。

「小さい方、がんばれ」体重差70gの奇跡

妊娠中、医師から告げられたことがあります。
「双子のうち、1人の胚が小さいんです。よくあることなのですが、小さいほうのお子さんは吸収される可能性があります」

夫婦ともに、二人が元気に誕生することを願っていました。
だから、お腹に向かって毎日声をかけていました。

小さい方、がんばれ大きい方、ちょっとご飯を分けてあげて。

その願いが届いたのか、二人がお互いに分けっこしていたのか。
生まれた時には、体重差70gという、ほぼ同じ体形で出てきてくれました。

これは、いま振り返っても、奇跡だと思っています。

のん気な妻と、緊急手術の日

定員オーバーを迎えた、妻のおなか

妻は元々、小柄でスリムな体型。
医師からは「35週まで持てば上出来」と言われていました。

それでも妻は元気そのもの。
「おなかが重い」と言いながら、人生史上最大のウエストになったことを冗談にしていました。
私のお父さんのあの大きなおなかを超えるかも」と。
(残念ながら、最後まで超えることなく出産することになるのですが。)

30週を経過した頃、小柄な妻の体はついに限界を迎えます。
おなかの中が狭すぎるのか、検診のたびにおなかの子の心音が低下していると告げられたのです。
「予定日よりは早いですが、お母さんは十分がんばりました。帝王切開で赤ちゃんを外に出してあげましょう。」
医師から告げられ、入院することになったのです。

入院後も、妻はあまりにも元気でやることがないため、他の入院患者さんたちと仲良くなり、おしゃべりに行ったり、人の部屋を訪問したり。
たびたび行方不明になり、看護師さんが探し回っていたそうです。

そして、妊娠30週を過ぎた、ある朝の定期検診。
1人の子の心音が、急に弱まっていることが分かりました。
担当医師が、その場で緊急帝王切開を決定したのです。

「先輩、私が当直に入ります」

その日、私は職場で当直勤務に入っていました。
当直は、朝出勤したら翌朝まで原則職場を離れることができません。

母から職場に連絡が入り、緊急手術のことを知らされた私は、こう思っていました。
「行きたい。でも、当直中だから無理だ。」

その時、教官室で話を聞いていた後輩が、こう言ってくれたのです。
先輩、私が当直に入りますから、病院に向かってください。

思わず、胸が熱くなりました。
当直交替の手続きを終えて、私は病院に直行しました。

「どうか、間に合ってくれ…」
そんなことを思いながら、ドアを開けたのです。

病院に着いたら、妻がいなかった

病室には、誰もいませんでした。
妻はおろか、両家の母親も、まだ着いていない。

それもそのはず。手術の連絡を聞いてからの私の動きが早すぎて、誰よりも先に着いてしまっていたのです。

では、妻はどこに?
看護師さんが「手術への心の準備ができていなくて、逃げ出したのでは」と大慌てで探してくれました。

そして、発見されたのは。
仲良しの入院患者さんの部屋で、楽しくおしゃべりしているところでした。

なんてのん気な人なんだ。

ようやく顔を合わせた妻に、私が「大丈夫か?」と声をかけると、こう返ってきました。
あれ、早かったね。一番乗りだよ。

挙句の果てには、私が仕事をさぼって飛び出してきたのではないかと笑っていました。
緊急手術の本人に、心配されている。
ぐっち夫妻、いつも通りです。

ドラマのワンシーンは、現実にはなかった

妻が手術室に向かい、私は待合室(というか廊下)で待つことになりました。

その時の記憶が、ほとんどありません。
後ほど到着した母は、こう言いました。
あんたは、ずっとクマみたいにうろうろしていたよ。

無心で、本当にクマだったのでしょう。
エサを探していたわけではありません。

そして、手術が無事成功。
看護師さんが知らせに来てくれて、私は一目散にオペ室に向かいました。

ドラマなら、そこで小さな我が子の手を握り、感動の対面…というところです。
ところが、オペ室には担当の看護師さんと妻しかいません
妻も麻酔から十分目が覚めていない。

私が呆然と立ち尽くしていると、看護師さんがこう告げました。
未熟児なので、生まれてすぐに保育器に入りました。しばらくしたら、遠くから見ることはできますよ。

頭の中のドラマのワンシーンが、音を立てて崩れた瞬間でした。

「サルそっくり!」と口走り、両母に叱られた新米パパ

数時間後、面会の準備ができたと知らされました。
新生児室の保育器に入れられた我が子を、看護師さんが窓の近くまで移動してくれます。

そこで初めて、我が子の顔を見ました。
そして、私は思わず声に出していたのです。

サルそっくり!

両母に、叱られました。

「あんた、何てこと言うの!」

いえ、本当に思ったんです。サルそっくりだったんです。
(いま振り返っても、本当にサルでした。)

か細い声で泣き、ミルクを飲む姿を見ることができました。
私はその時、まだパパになった実感がなかった。
でも、妻は誕生した我が子との対面に、思わず涙していたそうです。

未熟さが、ここでも私と妻の対比になっていました。

8人乗りワンボックスと、色違いのベビーシート

約2週間の入院期間を経て、二人は退院しました。
体重の重かった兄が先に、弟は数日遅れで、時間差での退院でした。

退院に向けて、私たちは事前に二つの問題を解決しなければなりませんでした。

それは、自動車のサイズとベビーシート。

夫婦だけの間は、妻が通勤でも使える軽自動車に乗っていました。
でも、それでは2つのベビーシートを搭載できない。
そのため、8人乗りのワンボックスカーに買い替え、色違いのベビーシートを2つ購入してその日に備えていたのです。

地元での子育てが落ち着くまでは、妻の実家でお世話になることになっていました。
私も居候させていただきつつ、仕事に通っていた。

その時はまだ、激動の毎日が始まるとは、考えもしなかったのです。

「当直の日が安息日」になった日々

激動の時間は、本来休息するはずの夜になると始まりました。

日中は、妻、義母、祖母、近所のおばあちゃんなど、お世話をしてくれる人たちがたくさんいました。
私の役割は、おむつ交換くらいでした。

ところが、夜は地獄でした。
2時間ごとのミルク。おむつ替え。寝られない。悪夢で目を覚ます。

特にきつかったのは、1人が泣いてあやしてやっと寝かしつけてホッとしたのもつかの間、もう1人が目を覚まして泣き始める瞬間です。
私はそれを、「地獄のリレー」と呼んでいました。

眠れーん!

そんな日々の中、職場の先輩がこう言いました。
当直の日が、安息日になるよ。

その時は「そんなはずないでしょ!」と思っていました。
でも、実際にやってみると、3時間の仮眠時間が最高のご褒美タイムだったのです。
妻には、口が裂けても言えませんが。

そして、その寝不足のせいなのか。
先輩職員いわく、結婚→子どもの誕生で、私の熱血教官ぶりは段階的に進化していったそうです。
担当していた新入時教育では、後にこう書かれるほどでした。
もう二度と、新入時に戻りたくない」と、少年が出院時アンケートに記すほど。

思い返せば、新婚の頃は「結婚したからって、腑抜けになったと思われる訳にはいかない」とがむしゃらに仕事に取り組みました。
そして、子どもが生まれてからは、超寝不足状態で常にアドレナリン大量分泌状態だったのでしょう。

家庭の激動が、仕事にもしっかり影響していたのです。
あの頃担当した少年たち、ごめんね。

役立たずの私と、確保される逃走児

「イクメン」ではないけれど

私は、仕事から帰宅したら、夕食までの時間でできる限りのことをやりました。
双子用ベビーカーで散歩、お風呂、寝かしつけ。

ただし、寝かしつけは、ほぼ毎回私が先に撃沈していました。

子どもたちは、眠りこけた私の横をすり抜けて逃走します。
それを、テレビを見ていた妻が確保する

役立たずの私。

妻という存在

妻は、本当にたくましく、ポジティブな人です。

好きだった仕事を離れ、専業主婦になっても、主婦業を新たな「仕事」として毎日元気よくこなしていました。

子どもたちが進学してからは、双子は基本的に別のクラスに振り分けられるため、PTAなどの学校の役割を他の人の2倍やらなければなりませんでした。

普通なら嫌になりそうなところですが、妻はたくさんの友達を作り、役割は面倒だと言いながらも、楽しそうに学校に行っていたんです。

そのおかげで、私は仕事に専念させてもらえました。
本当に、感謝しても感謝しきれない

これが、私の妻です。

高校時代の私へ、ひと言

最後に、いまの私から、当時の自分にひと言かけるなら。

「高校時代、『早く結婚して、双子が欲しいな』なんて友人とバカ話していた頃のお前。
願いがかなったぞ!

就職したその日に後の伴侶と出会い、子どもができたと思ったら念願の双子なんて、
お前の人生、出来過ぎだ!

人生って、本当にこういうものなのかもしれません。
私が忘れていた小さな願いを、人生はちゃんと覚えていてくれた。


このnoteは、連載「ふりかえれば、いつも分岐点」第4話です。

【全話マップ】
フランスでモンテッソーリを学んだ私が、実は20代で少年院にいた理由
「お前、少年院に入るぞ」と言われた悪ガキが、本当に少年院に入った話
印鑑すら持っていなかった社会人初日、運命の妻と出会った話
番外編①あわや「成田離婚」
双子のパパになった日(本記事)
番外編②性格も好みも全然違う双子
ヨーロッパで見たモンテッソーリの原風景
番外編③5年越しのパリ、7年かけて取り戻すフランス語の旋律
少年院の教官だった私が、フランス語ゼロから1年で外交官として渡仏した話
管理職昇進研修で前向きになれた話
「こんなところに来とうはなかった」 — 想像と違う未来が始まった日
想像と違う未来と絶望
ラストダンジョンでの勤務、9月の落とし穴
救急搬送され、ようやく素直になれた私
法務教官として輝いた、最後の2年
(以下、毎週日曜朝7時に続きます)

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