本能寺の変1582 【重史236】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史236】 「イエズス会日本年報」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史236】
①彼(信長)は日本の王侯大身を悉(ことごと)く軽蔑した
②我等(イエズス会の宣教師)に対しては常に好意を示し、
③彼(信長)は数回説教を聴き、
④傲慢であるためデウスの御恵を受くることができなかった。
⑤謙遜することなく、かへって益々傲慢となり、
⑥ネブカドネザル(新バビロニアの王)の驕慢に倣ひ、
「イエズス会日本年報」
天正十年1582、五月**。 1582005**
信長は、傲慢になっていた。
フロイスは、「傲慢」・「驕慢」を多用している。
余程、強い印象を受けていたのだろう。
彼(信長)は日本の王侯大身を悉(ことごと)く軽蔑したにかかはらず、
我等(イエズス会の宣教師)に対しては常に好意を示し、
異郷の人であるため同情を表した。
また我等に対し反対者の讒言と偽りの証言が屢々(しばしば)行わるる
が、
パードレ(宣教師)の行状がよくその真なることを知ってゐ故、
彼の生存中は少しも妨害を受くることなく、
その領内においてデウスの教を説き聖堂を建つることを許すと言った。
彼(信長)は数回説教を聴き、彼に説いた道理に力あることを悟ったやう
であるが、
傲慢であるためデウスの御恵の光を受くることができなかった。
(中略)
彼は万物の創造主の力強き御手より受けたる大いなる恩恵を感謝して
謙遜することなく、
かへって益々傲慢となり、
日本全国の領主と称し、
日本の古老の言によれば、
五十余ヵ国よりかつて見、また読みたることなき甚深なる尊敬を
受くるに満足せず、
ネブカドネザル(新バビロニアの王)の驕慢に倣ひ、
死すべき人間にあらず、神にして不滅のものなるが如く、
尊敬せられんことを希望した。
(「イエズス会日本年報」天正十年十月二十一日付)
【参照】【重史052】
信長がかくの如く驕慢となり、世界の創造主また贖主である
デウスのみに帰すべきものを奪はんとしたため、
デウスはかくの如く大衆の集まるを見て得たる歓喜を長く
享楽させ給はず、
安土山においてこの祭りを行った後十九日を経て、
その体は塵となり灰となって地に帰し、
その霊魂は地獄に葬られた‥‥(略)。
(「イエズス会日本年報」天正十年十月二十一日付)
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
【参照】【四国問題 概要】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
