本能寺の変1582 【重史238】 260610 №6-165 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史238】 260610 №6-165
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
←【五大要因】 中 小
←1 時代の風潮
1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
3尾張
←2 光秀の実像
1信長という男
2光秀という男
3光秀と光慶 1光秀の素性 2光秀の年齢 3嫡男光慶
4先祖の教訓
5大量殺戮
6信長の弱点
←3 光秀の苦悩
1粛清の怖れ
2志向の相違
3光秀の老い
4四国問題
5自立への道
←4 武田の滅亡
1甲斐遠征
2勝頼の首
3武田効果
←5 信長の油断
「事態急変」
1 勝利の余韻 概略 4月21日 24日
2 四国出陣 概略 5月7日 1/3 2/3 3/3 11日
3 足蹴事件 概略 5月12日 1/5 2/5 3/5 4/5 5/5 15日
密室にて 1/3 2/3 3/3 ① ② ③ ④ ⑤
4 中国出陣
5 時は今、・・・・・。
←さる程に、不慮の題目出来候て、
←【注目ポイント】 目次
←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
←【人物】
←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
←【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 260610
【重史238】 260610 №6-165 16~17/19
①三十年奉公を遂ぐるの内に、
②比類なき働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事。
③先年、遠江へ人数を遣(つかは)し候刻(きざみ)、
④一人も殺さず。
⑤剰(あまつさ)へ、平手(汎秀)を捨て殺し、
『信長公記』
天正八年1580、八月**。 1580108**
これが、信盛の生き方だった。
「この三十年間、手柄らしい手柄を上げていない」
信長は、そう、言っている。
16一、信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、
佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし候儀、
一度もこれあるまじき事。
信長は、重臣たちを、よく観察していた。
光秀を、見よ。
秀吉を、〃〃。
勝家を、〃〃。
四人は、ともに、織田家最高位の重臣。
当然、比較の対象となる。
信長は、猜疑心の強い男。
信盛は、油断した。
信長の性格を、よくわかっていない。
「三方ヶ原の合戦」
八年前。
元亀三年1572、十二月。
敵は、戦国最強を誇る甲斐の虎。
あの、武田信玄である。
徳川家康、最大の危機。
信長の四囲は、皆、敵。
信長は、家康を支援するため、信盛を将とする軍勢を浜松へ派した。
17一、一世の内、勝利を失はざるの処、
先年、遠江へ人数を遣(つかは)し候刻(きざみ)、
信盛は、戦わず、逃げた。
戦場離脱。
戦死した者は、一人もいない。
これでは、一体、何故の派兵だったのか・・・・・。
互に勝負ありつる習、紛れなく候、
(勝敗があるのは世の習い、敗れたのは紛れもない事実である)。
然りといふとも、
家康使をもこれある条、をくれの上にも、
(家康の強い要望があったのだから、後れを取ったとしても)、
兄弟を討死させ、又は、然るべき内の者打死させ候へば、
その身(信盛)、時の仕合(状況)に依て、遁(逃)れ候かと、
人も不審を立つべきに(推量するだろうに)、
一人も殺さず。
信長は、信盛に疑念を抱いた。
繰り返す。
信長は、猜疑心が強い。
その上、執念深いのである。
信長は、誰よりも、誇り高い男。
面目を潰された。
剰(あまつさ)へ、平手(汎秀)を捨て殺し、
世にありげなる(平然とした)面をむけ候儀、
爰(ここ)を以て、条々、無分別の通り、紛れあるべからずの事。
(『信長公記』)
【引用】【粛清 佐久間信盛】
【四国問題】 天正十年1582 五月十二日
◎第13話
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
【参照】【四国問題 概要】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
