本能寺の変1582 【重史263】 №6-167 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史263】 №6-167
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
←【五大要因】 中 小
←1 時代の風潮
1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
3尾張
←2 光秀の実像
1信長という男
2光秀という男
3光秀と光慶 1光秀の素性 2光秀の年齢 3嫡男光慶
4先祖の教訓
5大量殺戮
6信長の弱点
←3 光秀の苦悩
1粛清の怖れ
2志向の相違
3光秀の老い
4四国問題
5自立への道
←4 武田の滅亡
1甲斐遠征
2勝頼の首
3武田効果
←5 信長の油断
「事態急変」
1 勝利の余韻 概略 4月21日 24日
2 四国出陣 概略 5月7日 1/3 2/3 3/3 11日
3 足蹴事件 概略 5月12日 1/5 2/5 3/5 4/5 5/5 15日
密室にて 1/3 2/3 3/3 ① ② ③ ④ ⑤
4 中国出陣
5 時は今、・・・・・。
←さる程に、不慮の題目出来候て、
←【注目ポイント】 目次
←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
←【人物】
←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
←【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史263】 №6-167
①十四日、平谷(同平谷村)を打ち越え、なみあひに御陣取り。
②爰にて、武田四郎父子の頸・・・、御目に懸けられ候。
③十五日、四郎父子の頸、飯田に懸け置かれ上下見物仕り候。
『信長公記』
天正十年1582、三月十四日。 158200314
信長は、浪合で、勝頼の首と対面した。
同三月十四日。
浪合に到着(長野県下伊那郡阿智村浪合)。
静かな山中の小集落。
今で言えば、四月頃。
新緑の谷あい。
桜の咲き始める季節である。
この日の行程、凡そ五里20km。
信長は、ここで、勝頼の首と対面した。
十四日、平谷(同平谷村)を打ち越え、なみあひに御陣取り。
爰にて、武田四郎父子の頸、関与兵衛・桑原介六、もたせ参り、
御目に懸けられ候。
則ち、矢部善七郎に、仰せつけられ、飯田へ持たせ遣はさる。
光秀も、浪合で、勝頼の首を見た。
光秀は、信長に同行している。
これが、武田の最期。
信長に逆らった者の末路。
「哀れなものよ」
時は、滔々と流れていく。
信長は、戦後の処理について考えた。
思った以上に、早い決着。
後継者、信忠の手腕。
滝川一益の手柄。
諸将の勇戦。
等々。
信長は、機嫌がいい。
満足していた。
となれば、次。
論功行賞
甲斐・信濃・上野・駿河。
四ヶ国の国割。
諸将の配置。
家康のこと。
関東・奥羽の仕置き。
北条のこと。
等々。
信長は、飯田で、勝頼の首を晒した。
同三月十五日。
浪合を出発。
行軍、凡そ六里半26km。
飯田に、到着した。
ここで、勝頼の首を晒す。
十五日、午の刻より雨つよく降り、
其の日、飯田に御陣を懸けさせられ、
四郎父子の頸、飯田に懸け置かれ、上下見物仕り候。
信長は、武田の滅亡を世に知らしめた。
同十六日。
信長は、飯田に滞在した。
敗者、斯くの如し。
「無念」
その形相(ぎょうそう)。
光秀の、脳裏にこびり付く。
十六日、御逗留。
武田信豊の最期。
同じ頃。
武田信豊が家臣下曽根浄喜によって殺害された。
「裏切り」
信豊は、信玄の弟典厩信繁の忘れ形見。
勝頼の従弟である。
信州さくの郡小諸に、下曾根覚雲軒楯籠り候。
武田典厩、下そねを憑み、纔(わずか)廿騎ばかりにて罷り越され候。
肯(うけこい)申し、二の丸まで呼び入れ、無情に心を替へ、取巻き、
既に、家に火を懸け候。
典厩が若衆に、朝比奈弥四郎とて候ひキ。
今度、討死を究め(覚悟し)、上原(長野県茅野市茅野上原)在陣の時、
諏訪の要明寺の長老を道師に憑(たの)み、
戒(かい=仏教の戒律)を保ち、道号をつけ候て頸に懸け、
最後に切つて廻り、典厩を介錯し、追腹仕り、
名誉、是非なき題目なり。
信豊の首。
信長、これを検分。
典厩を憑(たの)みし姪女(めい)聟、百井と申す仁、
是れも一所に腹を仕る。
侍分十一人生害させ、典厩の頸、御忠節として、下曾根持ち来たり、
進上仕り候。
則ち、長谷川与次(丹波守)もたせ参る。
三月十六日、飯田御逗留の時、典厩の首、信長公へ御目に懸けられ候。
信長は、勝頼の乗馬大鹿毛を信忠に与えた。
同日。
申し分ない戦ぶり。
「見事」
そう、思っていただろう。
仁科五郎乗り侯秘蔵の蘆(あし)毛馬・武田四郎乗馬大鹿毛(かげ)、
是れ又、進(まい)らせられ候ところ、
大鹿毛は、三位中将信忠卿へ参らせられ、
信忠は、自慢の後継者だった。
信長は、目を細めた。
大満足である。
織田家の将来は、明るい。
信長は、武田の消滅を実感した。
勝頼の愛刀を手に、・・・・・。
武田四郎勝頼、最後にさゝれたる刀、
滝川左近かたより、信長公へ上せ申され候。
使に祗侯の稲田九蔵に御小袖下され、忝き次第なり。
信長は、執念深い。
思えば、十年前。 →【重史238】 【重史262】
元亀三年1572、十二月。
信長が窮地に陥っていた時。
武田信玄が裏切った。
「三方ヶ原の合戦」
信長は、煮え湯を飲まされた。
大敗を喫す。
積年の怨み。
今、ここに晴らす。
信長は、勝頼の首を京へ送った。
同日。
「京にて、獄門に懸けよ」
使者は、長谷川宗仁。
武田四郎・同太郎、武田典厩・仁科五郎、
四人の首、長谷川宗仁に仰せつけられ、
京都へ上せ、獄門に懸けらるべきの由候て、御上京候なり。
(『信長公記』)
長谷川宗仁は、首の配達人。
天正元年1573、八月。
信長に命じられ、朝倉義景の首を京へ送り届け、獄門に懸けている。
これについては、後述する。
【引用】◎第114話 第114話 小
5 信長の油断 3 足蹴事件
密室にて 1/3 2/3 3/3 ① ② ③ ④ ⑤
【参照】信長の甲斐侵攻
4勝頼の首
◎第112話 ◎小112 ◎P112 通し 第112話 小
◎第113話 ◎小113 ◎P113 通し 第113話 小
◎第114話 ◎小114 ◎P114 通し 第114話 小
⇒ 次へつづく
