本能寺の変1582 【重史022】 251119 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史022】『信長公記』 251119
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
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1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
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信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 251119
【重史022】 251119
①三月廿三日、滝川左近召し寄せられ、
②上野国、幷(なら)びに、信州の内二郡下され候。
③年罷り寄り、遠国へ遣はされ候事、
④関東八州の御警固を申しつけ、
⑤老後の覚えに上野に在国仕り、
⑥東国の儀、御取次、彼れ是れ申しつくべきの旨、
⑦都鄙の面目、此の節なり。
『信長公記』
天正十年1582、三月二十三日。 158200323
信長は、諏訪法華寺にて、滝川一益に上野一国と信濃二郡を与えた。
以下は、その時の様子である。
三月廿三日、滝川左近召し寄せられ、
上野国、幷(なら)びに、信州の内二郡下され候。
信長は、一益に、名誉を与え、最後の花道をかざってやろうとした。
一益は、五十八歳。 →【人物】 ◎第70話 そ第70話
高齢だった。
間もなく、六十代に突入する
年罷り寄り、遠国へ遣はされ候事、
痛みおぼしめされ候と雖(いえど)も、
関東八州の御警固を申しつけ、老後の覚えに上野に在国仕り、
東国の儀、御取次、彼れ是れ申しつくべきの旨、上意、
忝くも御秘蔵のゑびか毛の御馬下され、
此の御馬に乗り候て、入国仕り候へと、御諚。
都鄙の面目、此の節なり。
(『信長公記』)
だが、これは、表向きのこと。
「上意」、下達。
一益本人の意向は、闇の中。
・・・・・。
光秀は、これを見ていた。
【引用】【四国問題】 天正十年1582 5月26日 3/4
◎第70話 ◎第75話
そ第70話
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
【参照】【四国問題 概要】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
