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本能寺の変1582 【四国問題】 十 4月24日 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【四国問題】天正十年1582 4月24日

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

天正十年1582

目次

4月24日 【重史036】          ✓ 天正10 158200424
そもそも、中国出陣は、「来る秋」のはずだった。
なれど、信長は、待ちきれず・・・・・。

  ①中国進発の事、来秋たるべきの処、
  ②小早川、備前児嶋より敗北せしめ、備中高山に楯籠るの間、
  ③羽柴藤吉郎、出陣せしめ取巻くの由、注進候、
  ④重ねて、一左右次第、出勢すべく候、
  ⑤猶、惟任日向守、申すべく候也、
                           「細川家文書」

秀吉の役目は、毛利の本軍を誘き出すこと。
早速、注進あった。

小早川隆景の軍勢が、近くの高山に着陣。
秀吉、これと対峙。

吉川元春、未だ、現れず。
毛利輝元、同。

信長は、動かず。
「引きつけよ」
出陣のタイミングを窺っていた。

次の報せを待つ。

中国出陣の日は、近い。
信長は、光秀と細川藤孝に、出陣の準備を命じた。

石谷頼辰は、土佐へ向かっていた。
おそらく、未だ、到着していない。

光秀の心中や、如何に・・・・・。
光秀は、信長の、当初の言を受けて、それに合わせて、行動していた。
「中国進発の事、来秋たるべきの処」

光秀は、出来る男。
キレ者である。
もちろん、十分な余裕を持って。

ところが、事態急変。
大幅に、早まることに。
おそらく、二ヶ月程も・・・・・。

となれば、
頼辰は、間に合わぬ・・・・・。



 ⇒ 次へつづく



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