169.【小説】男と女∶1-とある珈琲店にて-
あらすじ
「男と女」――珈琲一杯のストーリー。
交わる視線、すれ違う足音、言葉にできなかった想い。
この短編集は、喫茶店、雨の駅、午後の坂道など、都市の静かな風景の中で、男と女の心の温度差と余白を描いていきます。
全13話、それぞれの登場人物は別人でありながら、どこかで繋がり、交差し、やがて1本の線になっていく。
シリーズを貫くのは「再会」や「赦し」、あるいは「静かな別れ」。
そして物語の余韻を包むのは、ジャズやボサノヴァ、クラシックなどの音楽たち。
情景と感情が重なり合うように、曲と物語が静かに響き合う構成になっています。
喫茶店で珈琲を飲むように、少しずつ、心に沁みていく物語です。
男と女-神戸北野の珈琲店にて-

「やあ、久しぶりだね」
男がそっと声をかけると、女性は顔を上げて、ふっと笑った。
「……あら、アナタなのね。何年ぶりかしら」
「少なくとも、このカフェで会うのは十年ぶりだと思う。」
「そうね、北野に来るのも、随分久しぶりよ」
彼は軽く頷くと、注文の合図をして、椅子を引いた。
「向かい、座ってもいい?」
「もちろん。昔と同じ席ね」
ふたりの間に、コーヒーの香りが立ち上った。
「相変わらず、ブラック?」
「いや、最近はミルクも入れることが増えたよ。歳を取ったからかもしれない」
「それは変わったわね。昔は頑なに、砂糖すら拒んでたくせに」
「うん、ただ恰好つけてたんだろうな。今思えば、いろいろ見栄、見せ方にこだわっていたと思うよ。」
女はカップを手にしながら、少しだけ目を伏せた。
「アナタ、神戸に戻ってきたの?」
「ああ、つい最近。いろいろあってね」
「……いろいろ?」
「うん、少し前に離婚してさ。1つの区切り、ってやつだと思ってね。転職とセットで、神戸に戻って来たよ」
「そう。……そっか、色々あったのね。」
「君は?幸せにやってるとSから聞いたよ。
「ありがとう。……まぁ、いろいろあるけど、それなりにね。」
彼女は、カップの縁に唇を近づける前に、ふと微笑んだ。
「娘がね、ホットココアが好きで。最近はつられて、また私も飲むようになったの」
男は少しだけ驚いたように、けれど優しく笑った。
「そっか。今も好きなんだね、ホットココア。……シナモンも、相変わらずかい?」
窓の外には、北野坂の石畳が、午後の光を細く反射していた。
彼の背中越しに聞こえるのは、グラインダーの音と、店主の低い笑い声。
あの頃、二人が交わした言葉よりも、交わせなかった言葉の方が、今はよく思い出される。
しばらく沈黙した後、男がぽつりと漏らした。
「あの時、もう少し、こうやって本音で話せていたら、違ったのかな。」
女は視線を外したまま、笑うような、ため息のような声を出した。
「……私も、そう思うことあるわ。でも、あの時の私たちには、無理だったと思う。」
「たしかに。若さとか、余裕のなさとかね。ただ、自分の事で精一杯だった。」
二人のカップは、いつの間にか空になっていた。
女がスマートフォンを取り出し、画面をちらりと見た。
「そろそろ行かなくちゃ。娘が待ってるようなの」
「うん、そっか。……元気で」
彼女は席を立ち、鞄の紐を肩にかけながら、ふと振り返った。
「……会えてよかった。ありがとう」
「こちらこそ。何より今の君の幸せを、大切にね。」
彼女が店を出ていったあと、男はしばらく扉の向こうを見つめていた。
空になったカップには、珈琲の僅かな残り香だけがあった。
それから男は、空になったカップを優しく両手で包み込んだ。ぬくもりはもう残っていないけれど、不思議と、その重さが心に残った。
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