#588[短編]琥珀色の間[21]──琥珀色の桜
風の匂いが変わった瞬間、人の心も揺れる。ただそこにあるだけではない光景に、爽子は息を呑んだ。連載第25回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、11話、12話、13話、14話、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
洗濯機の終わる音が、午後の部屋に小さく響いた。
爽子は書き物の手を止め、ゆっくりと立ち上がる。
出勤前に、胸の奥に沈んだ小さなざわめきを押し込むように、息を吐いた。誰にも話していないことが、今日もひとつ増えていく気がした。
爽子は白い服の袖を整えながら、時計を一度だけ見た。静かにアイロンの電源を切り、電気を消した部屋で乾いた空気を胸に吸い込んだ。
玄関のカギを閉めた瞬間、風の匂いが変わった。
この時間に家を出る生活には、もう慣れたはずなのに、
指先には、いつもと同じ小さな緊張が残っていた。
駅へ向かう途中、風がふっと強くなった。
湿り気のない、穏やかで温かい風が吹き抜ける。
ふしぎな日だ──こんな空気は今までに感じたことがない。
高層マンションの隙間の桜の枝が、眩しすぎない午後の陽射しに当てられ、静かに揺れている。
陸橋の下の狭いトンネルに入ると、温かい風が流れ込んできた。
昼間でも薄暗い無機質な空間を抜けると、爽子は眩しくて目を細めた。
「あ…………」
桜の花びらが目に飛んで、頬に手を当てる。
爽子は思わず足を止め、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
自分だけが取り残されてしまうような気がした。
気づけば、スマートフォンを握って、
大翔の名前を開き、通話ボタンを押した。
「大翔さん、ちょっと…来てもらえますか……」
通話を切ったあとで、急に鼓動が速くなる。
来てほしい理由よりも先に、指先が動いていた。
◇
「爽子さん!」
爽子は後ろから呼び止められて、軽く振り返った。
大翔は最後の力をふり絞って爽子に駆け寄る。
陸橋の下に靴音が響く。全速力で走ってきた大翔は、目を見開いて息を切らし、グレーのパーカーの襟元は乱れていた。
いつもはゆるいウェーブを整えた髪が洗いざらしのまま、桜の花びらが髪に絡みつく。爽子は大翔の慌てように動揺した。
大翔はパーカーの裾で汗を拭い、呼吸を整えた。
「なにか…あったんですか?」
爽子の目にはいつの間にか涙が浮かんでいた。
「……ごめんなさい。お願い、こっちです!」
爽子は咄嗟に大翔の手を取って走り出した。
「え、ちょ……爽子さん?」
大翔は一瞬だけ足をもつれさせ、握られた手を見下ろし、言葉を探しながらも引かれるまま走り出した。
信号を曲がると、線路沿いと、
その向かいのビルが立ち並ぶ通りに、桜並木が一気に広がった。
「きれいですね……」
大翔は言いかけて、言葉を失う。
爽子はここが満開になることを、まるで前から知っていたかのように、今ここへ着いた。2人は静かに立ち尽くした。
数百メートルも続く桜の街路樹は、
あちらの木から、こちらの木から、
風に吹かれて、横に、横にと桜吹雪が舞っていた。
2人はゆっくりと、桜の海の中へ入っていった。
正午よりやや傾いだ陽射しが、おだやかに花びらにふりそそぐ。
大雪のように、風に煽られ、空高く舞っては落ちようとする。
車が走り抜けるたびに、対向車とすれ違うたびに、
花びらは何度も、空高く舞い上がった。
大翔は声を絞り出した。
「な、なに、これ……?」
定間隔に走る列車が花びらを落とし、風に舞う。
桜吹雪は地面につくことなく、電車が、車が、ただ花びらを巻き上げて、風の海の中を、イワシの群れのように、いつまでも午後の光に照らされながら、泳いでいた。
車が通り抜けるたびに、足元の花びらが、
つま先を掠めて螺旋を描いて吹き上がる。
落ちることのない花びらが、
何度も、何度も、つむじ風に舞っていた。
永遠に時が止まってほしい──
声が出ない。ふたりは息をするのを忘れていた。
胸が苦しくて喉が焼きつくようにヒリついていた。
爽子がふと現実に戻る。
バッグに入り込んだ花びらを、いくつか取り出した。
そこへ、また別の花びらがまた入り込む。その繰り返しだった。
爽子は目がゆるむ。喉がふるえて、息を飲み込んだ。
自分がいつの間にか泣いていたことに気づいた。
喉が焼けるように熱くて、声が出せない。
この世のすべてを愛し、
なんどでも生まれ変わりたくなるような光景に──
ただ、ただ飲まれていた。
路肩に停められた車のハザードランプが、自分の鼓動のように思えた。
周りを見ると、通り抜けようとする車が躊躇いがちに車を路肩につけ、オレンジのランプが瞬いた。
大翔はあまりにも儚く、美しい光景に立ちすくんでいた──
こんな光景、みたことがない──
たぶん、一生見ることがないかもしれない。
大翔は、爽子の横顔から目を離せなかった。
言葉にしたら壊れてしまいそうで、ただ見ていた。
一体、何が起きているの……?
ふたりは心がかき乱されたように、言葉が追いつかなくなっていった。
このまま立ち止まっているわけにはいかない。
爽子は無意識に、繋いでいた大翔の手をそっと離した。
「ごめんなさい、急に呼び出したりして」
爽子は細い声でそう言うと、苦しそうに目を伏せて口元を押さえた。
ふたりはただその光景に圧倒されていた。
まさか、こんなことってある……?
現実が遠のくような感覚だけが残った。
電車が桜の枝のすぐ脇を通り、花びらを散らしていく。
自然に吹く風が、花びらを煽る。
電車が通り抜ける風が強すぎて、爽子は胸がズキンとした。
車が舞い上げるつむじ風が……
何度も、何度も、花びらを空高く舞い上げる。
「……あ、わたし、これから仕事なんです…」
もう少し、見ていたい。でも行かなきゃ。
大翔は空いた左手の感覚が自分に戻ってきて、心が痛む。
爽子はこの時間は一生でいちばん愛しい時間になると思った。
この景色の中でなら、何度でも生き直せると思えた。
大翔のパーカーの袖が、爽子のコートの肩に触れる。
ふたりの間に、短い沈黙が落ちた。
「ありがとう……」大翔がぽつんとこぼした。
右手で軽く髪を整えて、爽子に向き直る。
「仕事、何時からですか?」大翔は緊張しながら、口元は穏やかだった。爽子が時間を告げると、3時間以上もゆとりがあった。
「ああ、びっくりした…」大翔は軽くため息をつく。
「ヘンな奴がいたんじゃないかって、びっくりしましたよ」
「ほんとう、ごめんなさい…こんなことで……」爽子は肩を丸めて両手を揃え、大翔に頭を下げた。
「い、いや。俺びっくりするのが苦手で……これは人呼んじゃいますね。大丈夫です」
大翔は軽く笑って爽子の不安を押し返した。
爽子は大翔に打ち明けようとして、
喉の奥まで出かかっていたことを花びらと一緒に飲み込んだ。
指先が、繋いでいた手の熱を思い出して、ひどく冷たくなっていく。
風の音が、ふっと遠のく。
世界が一瞬だけ、静かになった。
「……かないで」大翔は俯いて、息を漏らした。
「え…?」大翔の目は前髪で隠れてよく見えなかった。
「いかないで、爽子さん」
大翔は無意識に声を張った。肩が揺れている。
ふたりの肩に、花びらが静かに落ちた。
季節に呼び止められるのは初めてだった。
大翔の声が、風よりも静かに胸に残った。
執筆: 2026/3/13 かきおろし <了, 約 2,800 字>


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