《葬送のフリーレン》アニメ2期予習まとめ(一級魔法使い試験編の後から黄金郷編の前まで)
所感
アニメ《葬送のフリーレン》第2期の予習として、アニメ化される原作のエピソードを再読して、各エピソード毎に感想・読解・考察を書いてきました。(一級魔法使い試験編の後から黄金郷編の前まで)
書き始めてすぐに強く感じたのは、一話完結のエピソード(単話)の連続であっても
前後のエピソードは一見無関係に見えて、実はかなり深い関係を持っている。
そのため、単なるあらすじ紹介ではない読む意味のある文章を書こうとすると、エピソード毎の区切りで記事を作ることはとても難しい。
つまり、「エピソード毎の記事」という企画(形式)には無理がある。
ということでした。
そこで、この企画の終わりに、エピソード毎の記事という形式では分かりやすく書く事が難しかった内容をまとめておきます。
なお、各エピソードが受け持っているテーマについては次の記事で触れています。

アニメ第2期の注目点(黄金郷編前まで)
アニメ化に際しての注目点をいくつか書きましたが、各記事に分散しているので集めました。放送時には確認してみようと思います。
第61話「封魔鉱」
フリーレンがシュタルクに「逃げるのも悪くないでしょ?」と言った時に、フェルンはどんな顔をするか?同意か?不同意か?(原作ではシュタルクの腰が抜けて座り込むまでフェルンの表情は描写なし)南の勇者の台詞「私の魔法(ひみつ)」を聞いてどのような印象を受けるか?(アニメ視聴者は南の勇者が未来視の魔法を使っているとは考えないはず。対して原作マンガ読者は一般には魔法を使っていると考えているが、これは叙述トリックによりミスリードされている可能性がある) → 南の勇者=タイムトラベラー説
南の勇者の声優は?ヒンメルと同一か? → 南の勇者=ヒンメル=タイムトラベラー説
第64話「剣の魔族」
「旅の僧侶」だと主張する女性を見てフェルンとシュタルクはどういう反応を示すか?この世界の教会制度は、ザイン兄とクレマティスが「神父」、ハイターが「司教」、ロレが「修道女」ですからカトリック教会類似です。だとすれば女性の聖職者は存在しないと思われます。修道女が「僧侶」と自称することはあり得ませんから、女性が「私は旅の僧侶です」と自称した時点で、教会制度に関する常識があれば疑念を持ったはずです。フリーレンはこの時点で疑っていたのでしょう。フェルンが反応を示さないのは不思議です。シュタルクは知らないかもしれませんが。第67話「穏やかな時間」
フリーレンに「いいことあったの?」と問われたフェルンの表情は?(原作では嬉しさと悲しさが同居した複雑な表情をしており、落ち着いて読み込まないとフェルンの気持ちは読み取れない)第69話「皇帝酒」(追記)
ミリアルデの台詞の「ゴミだったときのこと」や「私この里に来る前に」部分の演技。どんな感情が込められるか。第73話「遭遇戦」
フェルンが魔族の飛行魔法に疑問を持つ場面はアニメ第1期の描写(リュグナーが飛んでいる)と矛盾するためカットされるのではないか?(または、フェルンの疑問に答えるのではない別の形でフリーレンが魔族の飛行魔法について解説するように変更)第76話「決着」
アニメ第2期が1クールで、ここで終わる可能性(仲間との再会を予感させるかなり良い雰囲気なので区切りになりそう)。逆にこれより先もアニメ化するなら黄金郷編の終わりまではアニメ化する。
「いいことあったの?」の時のフェルンの表情と同じタイプの注目点で黄金郷編も含むなら、第10巻93話「大結界」で「神話の時代の大魔法使いだよ」と言った時のゼーリエの表情があります。ここは単純に考えればゼーリエはニヤリと笑うはずなのです。しかし、ゼーリエはそうしません。これもかなり難解で、なぜゼーリエがこんな表情をするのかはアニメーションでパッと見せられても私は理解できません。

読解・考察のポイント
私なりの読解・考察のうち、特にエピソードを跨ぐものについてポイントをまとめておきます。いずれも《葬送のフリーレン》という作品全体を射程に収める本質的な考察になっていると思います。
人と魔族の境界
第64話「剣の魔族」と第71話「討伐依頼」では、魔族が人を食べること、人と魔族の境界について考えました。
きっかけはフリーレンの「人以外も食べられるのに?」という反論です。これが反論として成り立つ為には「魔族を人として扱う」前提が必要です。ですから、これは反論というよりは、フリーレンから魔族への(人から人への)問いかけであり、呼びかけであると考えました。
人を物として扱うようになる(殺したり食べたりする)と人は化け物になってしまいます。人を人として扱う事が人であることの条件です。
しかし問題なのは、「人として扱うべき存在」と「物として扱っても構わない存在」の境界はそれほど明確ではないということです。
魔族は一体どちらなのか?と問う事で、《葬送のフリーレン》は人間の条件を読者に問いかけています。
フリーレンの心は魔族を殺す時に躊躇いと痛みを感じています。戦いの道を選んだゲナウは人としての感情を失いつつあり、死を望んでさえいます。そのことから、この作品の進む方向が朧げながら見えてくるのではないでしょうか。
その発展として、ゲナウにとってのゼーリエとメトーデについて。
さらに、ゼーリエとゲナウが抱える矛盾が《葬送のフリーレン》のメインストーリー、作品のテーマに深く関わっているという話をしました。
ゼーリエの言動を説明する時に「ゼーリエは不器用だから」という理由付けは大変便利なのですが、安易に使うと大切なことを見落としかねないですね。
真に世界を救った英雄は忘れられる
ヒンメルが「貸し借り無し」にこだわることから考え始めて、ヒンメルの願いは何だったのかを確認し(平和な日常を取り戻すこと)、そのためには「覚えておいてもらうこと」や「忘れられない存在になること」が重要なのではなく、むしろ逆に「忘れられた英雄」になることが必要なのではないか?と考察しました。
第13巻120話「虚像の英雄」はこの点をもっとわかりやすく示していると言えるかもしれません。是非、第8巻77話、第9巻78話と併せて再読してみてください。

これまでの《葬送のフリーレン》では、覚えていることがポジティブに、忘れることがネガティブに捉えられてきています。しかし、ここ第120話ではそのバランスが揺らいでいるように見えます。
おわりに
年末年始に読みたい小説も観たいアニメ・映画も遊びたいゲームも見つからず、丁度良い機会だったので《葬送のフリーレン》を再読しました。
私は《葬送のフリーレン》をかなり読み込んでいる方だと思うのですが、まだまだ味がします。かなり勉強になりました。
正直に「つかみどころがない」「いまいちピンとこない」と評価を書いたエピソードもいくつかありますが、「それは読み込みが甘いからだ」という可能性が十分あると思っています。
こんな読み方があるよ等、《葬送のフリーレン》に関することでしたら、感想・質問・疑問などコメントを頂けると嬉しいです。おもしろかった記事には「スキ」していただけると励みになります。
今回書いた記事は次の記事で目次を作っています。
《葬送のフリーレン》に関する記事は下記のマガジンにまとめています。
200本以上の記事がありますが、最初の考察記事としてお勧めなのはこちらです。
これを読んだ上で、フランメ、ヒンメル、エーヴィヒ、ゼーリエ、大魔法使い、などで検索すると物語の全体像に関わる考察が出てきます。
