265.【小説】誰のせいでもない 1-ある刑事の記録-何故、佐久間修は死んだのか。
あらすじ
一人の男が、静かに死んだ。
事件性はないとされたが、刑事・葛木はその死に「何か」を感じる。
男の名は佐久間修。かつて理想を語り、支援を重ね、称賛された人物──だがその最期に、誰一人として彼の本心を知らなかった。
妻、秘書、支援者、政治家──証言を追う葛木は、少しずつ浮かび上がる“像の不在”に気づく。
彼を語る声は多い。だが、誰も彼を見ていなかった。
これは「誰も殺していない」が、「誰もが殺した」とも言える死の記録。
理解されなかった者の沈黙と、ただ一人それに触れた刑事の、遅すぎた応答。
エンタメ原作への推奨ポイント:
「誰も殺していない。だが、彼は確実に“殺された”。」
殺意も犯人も存在しない社会派ミステリー。静かな会話劇の積み重ねと、最後に訪れる冷酷な現実。
評価でも否定でもなく、“関心のなさ”が人を追い詰めていく──。
映像作品としても、章ごとの視点転換と役者による対話劇の演出が映える構成となっております。
プロローグ
月曜、午後三時。
東京港区の高層マンションの一室は、時間が止まったように静かだった。
書斎の窓際には、深緑のカーテンが引かれ、柔らかな午後の光を鈍く遮っている。
空調は切られていたが、室内は驚くほど整っていた。机の上に無造作なものは一切なく、ペン立てさえ、きっちりと正面を向いていた。
ロープは、書斎の天井梁に結び付けられていた。革張りの椅子が一脚、真下に倒れている。
男はそのロープに首を通したまま、わずかに足先を浮かせるようにして、静止していた。足の下には、何の抵抗も、暴れた跡もなかった。
ただ、椅子が静かに倒れているだけだった。
遺書はなかった。
室内には何ひとつ、「別れ」を告げる紙片も、言葉も、残されていなかった。
あるのは、徹底的に整理された空間と、沈黙だけだった。
最初に異変を察したのは、定期清掃に訪れたメイドだった。鍵は預けられていたが、入室の際は必ずチャイムを鳴らす決まりだったという。
応答がなかったため、不審に思い、ドアを開けた。そしてその光景を目にした。
数分後には警察が到着し、応急処置も行われたが、すでに死後推定三時間。
司法解剖の初見では、死因は明確な縊死。外傷なし。事件性は一切認められず、刑事課も動員は不要と判断された。
だが、一人だけ現場に残った男がいた。
警視庁捜査一課の葛木(かつらぎ)圭吾。
彼は書斎の中央で立ち尽くし、無言のまま室内を見渡していた。
「……全部、整いすぎてる」
声はかすかだった。だがその口調には、経験則では説明できない違和感がにじんでいた。
あまりにも整然とした空間。
まるで、自分が死ぬことを“誰かに見せるために仕込んだ”ような死に方だった。
SNSではすぐに《#佐久間修を偲んで》というタグが広がり、「こんな立派な人が」「一度話しただけでもわかる人柄」──と、誰もが“佐久間を知っていた”かのように語り始めた。
翌日の昼。テレビでは、佐久間修の死が大きく報じられていた。
《実業家・佐久間修氏、死去》
──数多の経済再建に貢献。
晩年は福祉・文化支援に尽力。
画面には、彼が設立した佐久間財団での慈善事業の様子や、震災被災地の学校に寄付を贈った場面が映し出されていた。
スーツ姿の彼が子どもに微笑む映像のあと、ナレーションがこう結んだ。
「まさに、現代の社会的ヒーローでした──」
葛木は、そのテレビ画面をじっと見つめていた。やがて、そっと手帳を閉じる。
「……何も問題なかった人間が、なんでこうなるんだ。いや──“何もなかった”と思われていただけなのか。」
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