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愛されることの地獄——三島由紀夫と家庭という舞台


「この人は天才じゃないんだ。だって恋愛なんかするんだもの。」(三島由紀夫『詩を書く少年』)

三島由紀夫の小説『鏡子の家』(1959)は、ある種の異様さを湛えている。これは〈恋愛しない小説〉だ。登場人物たちは、ボクサー、画家、役者、経済分析に没頭する商社マンと、それぞれが自分の才能と天命に忠実であり、他者を欲望しない。かれらに交流の場を与える美女・鏡子ですら、かれらをただ観察し、愉しむだけだ。なぜ誰も恋愛をしないのか? まるで全員が三島由紀夫本人の投影である。

奇妙なことは、こうした禁欲の精神を描く三島自身が、直前に貞子さんとの大恋愛を3年間経験している点だ。当時の三島は堂々たる異性愛者でもあった。それでもなお、かれは小説のなかで「恋愛の不在」を描く。その矛盾が、三島の本質をあらわしている。


恋愛という技術

人は誰も最初の恋愛に失敗する。いいえ、最初の恋愛だけではないでしょう。人は何度もふられ、落胆し、傷つき、そうして徐々に「恋愛のフォーム」を習得してゆく。楽器の演奏のように、経験を重ね、相手との呼吸を合わせてゆく技術を身に着ける。才能ではなく、意志と練習の賜物である。

ただし、恋愛にはもう一つ重要な条件がある。〈相手が自分に抱いているファンタズム〉を演じる能力だ。もしこれを放棄し、ただの自然体で接すれば、恋愛はたちまち崩壊する。「愛される」ためは、つねに演じ続けることが必要であり、その演技を互いに引き受けなければならない。


三島は、なぜ恋愛に向かないのか

三島は、この「演じること」の本質を知りすぎていた。かれは他者に自分を委ねることができなかった。なぜなら自己の完璧さを保持するためには、相手の幻想に身を委ねることなどできなかったから。

三島には、強靭なナルシシズムがあった。だがそれはたんなる自己愛ではない。むしろ〈愛されたいという飢え〉の裏返しであり、「愛することで裏切られるかもしれない」という恐怖への、徹底した防衛だった。

なお、三島のこの構造は、母・倭文重との関係に起因している。


母という鏡像、妻という代役

三島の心の密室は、倭文重の〈過剰な愛と支配〉によって形作られた。彼は生まれて最初に出会った「愛」の形を、すでに歪められていた。母の機嫌を読み、理想の息子を演じることで、自己を構成せざるをえなかった。その結果、他者を欲望することはあっても、そこに真正な接触はない。つねに〈演技の距離〉が介在する。

恋愛もまた、〈愛されるための準備〉ではなく、〈ナルシス像を完成させるための工程〉となる。モッズスーツ、ボディビル、文学と映画の出演。すべては「他者にどう見られるか」の設計だった。

見合い結婚という「儀式」もまた、三島にとっては〈愛の代替演技〉であった。妻・瑤子さんと子どもたちとの生活、郊外のマイホーム、週末の家族団欒。だがそのすべては、「男役」を演じるための最後の舞台装置だった。

そしてその舞台に観客はいなかった。


家庭という箱庭のなかで

三島の家庭とは、〈共生〉ではなく、〈孤独のパッケージ化〉であった。妻は愛の対象ではなく、母との分離を演じるための代役。子は未来ではなく、死を前提とした舞台装置。かれは「愛するふり」を演じながら、愛されることに関してはつねに失敗し続ける。

精神分析で言う「マドンナ・娼婦コンプレックス」は、三島の母=倭文重との関係においてさらに複雑化する。彼女は三島にとって〈自己と共鳴する絶対的な鏡像〉であり、愛することも憎むこともできない。関係は〈演技と依存〉という形で凍結され、そこから逃れることができなかった。

その凍結された情動は、妻・瑤子さんとの関係をも歪ませる。なぜなら、彼女は原理的に三島の愛の対象たりえず、もしも彼女に情動を注げば母を裏切ることになるのだから。だからこそ、三島は意識的にその可能性を拒絶した。


二重の演技のあいだで

こうして、三島の生活は二重の演技に分断される。母への凍結された愛。妻への演技としての愛。夜はボディビルとゲイ・バーに身を投じ、自分のなかに「誰も知らない自分」を立ち上げようとする。だがそれもまた〈第二の演技〉にすぎない。

残された家族——妻も、息子も、娘も——三島にとっては、「父としての演技」を続けるための舞台装置にすぎなかった。

家庭は楽園ではなかった。それは、観客のいない劇場だった。


美しい牢獄の中で

ほんらい三島は、激しく愛することのできる人間だった。実際、三島は才能あふれる女性たちとおたがいにたのしそうに、華やかな社交を持ちもした。しかし、三島の愛はあまりに繊細で、あまりに完全を求めすぎるため、結局三島は他者との接触によって生じる「不完全さ」や「失敗」を受け入れらることができないのだ。

だからかれは、愛の中で生きることを諦め、〈演じる愛〉としての結婚を選び、〈演じる父〉としての家庭に身を置いた。そして最終的には、愛のなかで死ぬことではなく、〈死のなかに美を見いだすこと〉を選んだ。いいえ、この話をするのはいまではない。

愛されることに失敗した男は、「記憶されること」にすべてを賭けた。

三島由紀夫は、世界でいちばん孤独な男だった。

だがそれは、三島に他者がいなかったからではない。むしろ、かれの周囲はさまざまな他者に満ちていた。母があり、妻があり、子があり、友があり、同業者も読者も信奉者もいた。それでもかれは、けっしてどこにも〈自己を委ねられる真の他者〉を見いだせなかった。

三島は、ただ美しく磨きあげた孤独という牢獄のなかに、みずからを封じ込めた。




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