宇宙人、それはわたしだ――三島由紀夫『美しい星』の呪詛と救済
「おれは地球を救うために派遣された宇宙人だ。」
この途方もない宣言からはじまる三島由紀夫の異色作『美しい星』(1962)は、なんとも奇怪な小説である。父・大杉重一郎とその家族は、突如として自分たちがそれぞれ火星・木星・水星・金星から飛来した宇宙人であると“知る”。そして彼らは水爆による破滅の危機にある地球を救うため、〈宇宙同朋会〉なる平和運動を始める。だが物語はそうしたユートピア的運動の成功譚には決してならず、次第に滑稽さと狂気、そして破滅のイメージに彩られてゆく。
この物語は、地球の人間たちへの絶望と呪詛に満ちている。父・大杉重一郎は冷戦と偽善、経済的繁栄と享楽主義にまみれた人類を軽蔑し、こう吐き捨てる。
「冷戦と世界不安、まやかしの平和主義、すばらしい速度で愚昧と偸安への坂道を辷り落ちてゆく人びと、偽物の経済的繁栄、狂おしい享楽慾、世界政治の指導者たちの女のような虚栄心…」
これらの言葉は、たんなる“宇宙人”の観察を超えている。むしろこの呪詛には、三島由紀夫自身の怒りと幻滅が透けて見えるのだ。人間は地球を滅ぼす。だからこそ“外から来た者”としてしか、その病巣を批判できない。ここでの「宇宙人」とは、三島が文学において仮託した〈最後の自己疎外〉の形式にほかならない。
しかし、その自己疎外は滑稽なまでに演じられている。〈宇宙同朋会〉という名前からして冗談のようだし、家族それぞれが異なる星の出身という設定も、どこかマンガ的である。だが読者が笑って読もうとすると、すぐにその笑いは引きつり、恐怖に変わる。たとえば大杉がデパートで一瞬の安堵を感じたあとに思い描く幻視――そこでは着衣を吹き飛ばされ、皮膚が焼け爛れ、呻く裸の人々が累々と地に伏している。
「人たちが、着ているものはみな吹き飛ばされ、赤裸で地に伏して、呻き苦しんでいる姿をおもい描くのだった。」
この過剰なイマジネーション、破滅への陶酔は、もはやユーモアでも風刺でもない。これは、終末を予言する者の狂気であり、すでに世界の滅亡を“美”として享受し始めた者のまなざしである。ここにあるのは、まさしく“滅亡の美学”である。
では、なぜ大杉はこれほどまでに地球人を軽蔑するのか。なぜその呪詛はここまで激しく、徹底しているのか。
答えはひとつしかない。
それは大杉が、自分が地球人であることを、どうしても赦せなかったからだ。
「宇宙人」であるというフィクションを選び取ること、それはこのどうしようもない現実と、卑俗に満ちた人間社会から脱出する最後の手段だった。だが、脱出はいつも失敗する。なぜなら、“地球に生きてしまっている”という事実だけはどうしても消せないからだ。救いたいと思えば思うほど、その救えなさに絶望する。自分が属してしまっているものを他者化し、呪うことでしか生きられない。それが三島の文学的宿命であり、三島は『美しい星』においてそれをほとんど笑劇の形式で表出してしまった。
三島にとって“デパート”は、慰安の装置であると同時に、俗物性の象徴でもある。そこには癒しと同時に、恐怖と呪詛が同居している。この描写に、われわれは三島の文学観そのものを読み取ることができる。つまり、文学とは慰めであると同時に、病であり、毒でもあるということ。
『美しい星』を読むとき、読者は戸惑うだろう。これはSFなのか、風刺なのか、宗教小説なのか、はたまた政治小説なのか。そのどれでもあり、どれでもない。けれど確かなのは、この作品が三島にとってきわめて個人的な内面の表白であり、ある意味で彼の文学的絶望の極北であるということだ。
フローベールは「ボヴァリー夫人、それは私だ」と言った。三島もまた、この小説において言いうるだろう。
大杉重一郎、それはわたしだ。
自らを“地球に落ちてしまった宇宙人”と名指しながら、三島はその魂の果てにある〈絶望の美〉を描ききった。そしてだからこそ、『美しい星』はかれの“もっとも異常な、そしてもっとも正直な”小説なのかもしれない。
なお、三島はこの作品の英訳を強く望んだ。しかし、残念ながらこの狂気と痛烈な諧謔と、奇跡のような透明な絶望を同時に理解できる英訳者は、かれのまわりには存在しなかった。
そう、『美しい星』は、三島由紀夫が最も孤独だった瞬間の、もっとも透明な自画像なのである。
