仮面と光源。三島由紀夫の最良の読者は、デヴィッド・ボウイだった。
ある時期から、ぼくはそう信じるようになった。つまり、三島由紀夫という男を、本当に理解していたのは、おそらく、デヴィッド・ボウイだけだったのではないか。
もちろん、そんなことを証明する術はない。だが、ふたりの姿が、どこかで重なり合って見える。仮面をかぶってこそなにかを語ることができうふたりの男。かれらの語る世界が多くの者たちを熱狂させる。かれらは孤独な部屋のなかで、自分の分身と対話しながら、ゆっくりと、そして気づいたときにはもはや取返しがつかないほどに、壊れてしまう。
ぼくはそれを幻覚とは思わない。むしろ、かれらの存在そのものが、ぼくらの幻覚だったのではないか。世界が生み出した、世界に必要な幻だったのではないか。
三島は作家だった。けれども、作家である以前に、ひとつの姿勢(ポーズ)だった。三島は仮面をつけることで、ようやく言葉を発することができた。かれの言葉はいつも何かを隠し、そして同時に、何かを暴いていた。『仮面の告白』というタイトルは、ただの逆説ではない。それは、自己を語るための装置であり、演出であり、告白そのものの変奏だった。
仮面をつけなければ、けっして自分の声にたどり着けない。三島は、その痛みを、最初から知っていた。
スターとは何か?それは、人々のまなざしに晒されながら、同時に彼らを幻惑する存在。見られる者でありながら、見えない者。愛されながら、理解されない者。そして、仮面の裏で、ひとりだけ取り残された自分と向き合う者。
誰がそんな役を引き受けたいだろう?ちょっとした名誉欲なんかじゃ到底引き受けられない。スターとは、祈られながら見捨てられる存在だ。あるいは、自らを火にくべることでしかなにひとつ他者に届けられない者。
小説家でありながらスター願望を持った人間は、そう多くはない。サルトル? ノーマン・メイラー? カポーティ? ヘミングウェイ? あるいは、フィクションはなにも書かなかったけれど、フーコー? けれど、この件について、三島に勝てる者はいない。あえて言えば、サルヴァドール・ダリかもしれない――だが、ダリには三島の哀しさがなかった。
三島は、感じやすく、繊細で、傷つきやすい、抗いがたく死に憧れる、ロマン派の少年詩人だった。そんな人が、大衆社会――好奇心まんまんで飽きっぽく、つねに無責任に言いたい放題好き勝手なことを言う、そんな雑音に満ちた世界――で、仮面をつけることなくして生きられるはずがない。
だが、仮面をつけただけではスターにはなれない。人びとの欲望を惹きつける光源が必要なのだ。それは美であり、富であり、名声であり、そして――遠さだ。けっして手に入らない「何か」。その光の手前で、かれらは静かに火を灯す。
1958年、三島は『鏡子の家』を発表し、冷笑のなかで失意に沈み、映画『からっ風野郎』の撮影に主演俳優として参加する。その直後に書かれた短篇『スタア』は、ただのフィクションではなかった。それは予感だった。老いたスターを見た「僕」の目に映るもの――それは恐怖だ。衰え、劣化、死、忘却。それらが「演じること」の向こうに、確実に待っている。
『スタア』の主人公、水野豊は24歳。かれはけっして夢など見ない。なぜなら、夢を見るのは「本当の世界=世間」の人間の特権だから。かれは自分のファンを「醜いジャガイモ娘」たちとして見下ろしながら、撮影現場のなかで、静かに自分の虚構性を深めてゆく。
中盤、若い大部屋女優との接触があり、物語は思わぬ展開を見せる。そして、ラスト。年老いた先輩スターの素顔を見ることで、「僕」は自分自身の未来に怯える。満足しきっていた虚構に、突然、老いと死の影が差す。
この短篇の翌年、三島は『憂国』を書く。〈見る者/見られる者〉という主題は、のちの『太陽と鉄』にもつながってゆく。十年後の死を、彼はこの時点ですでに予感していたのかもしれない。あるいは、予感することで、それを「準備」していたのかもしれない。

デヴィッド・ボウイ
ボウイもまた、似たような経路を辿る。70年代、かれはジギー・スターダストという虚構のロック・スターを創り上げ、舞台の上で演じきった。あるいはそれはいささかオーヴァー・プロデュースされたボウイだったかもしれないけれど。いずれにせよ、ジギーはボウイではあった。しかし、同時にボウイではなかった。しかも、仮面をかぶって演じ続けるうちに、かれ自身が崩れていった。やがてボウイはドラッグに溺れ、ベルリンへ逃げる。
灰色のアパートメント。誰もいない夜の通り。ボウイは壁に三島の巨大な肖像画を掛け、その下で眠った。これは逸話ではない。神話の始まりだ。
夜ごと、彼はその眼差しの下で目を閉じた。仮面と仮面が見つめ合う、沈黙の対話。それは祈りだったのか、呪いだったのか。それとも、それこそが〈芸術〉の真の時間だったのかもしれない。
いったいこのふたりをどう語ったらいいだろう?三島もボウイも、現実よりも美しい虚構を生きた。本当の自分なんて、ふたりともまったく信じてはいなかった。かれらが信じていたのは、「演じること」だった。演じることで、人生に光を当て、火をつけ、そして燃やし尽くすこと。
ぼくは曇った鏡の向こう側にふたりの影を見る。ひとりはペンを持ち、もうひとりはマイクを握りしめている。ふたりとも、どこかで静かに笑っている。それが、誰のための笑いだったのか――それはもはや、誰にもわからない。

