#633[短編]琥珀色の間[23]──神の御許にて・Ⅰ
桜吹雪が意思を持って、海を泳ぐ。花びらは大翔の髪に、爽子の指先に触れては風に舞い上がる。連載第28回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、11話、12話、13話、14話、15話、16話、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
「この曲……マオくんの声ですか?」
大翔はイヤホンを片耳はずした。「はい」爽子が言うと、大翔はもう一度はじめから再生する。
「ダメだ……ここ、うるさ過ぎて聞こえにくいですね」
「残念……仕方ないですね」爽子は口角を少し結んで、大翔から目線を下ろした。
「爽子さん、家で聴いてもいいですか?」爽子は未発表であることを告げて、聴いてもらう方法を考えた。
「なんとなく分かりましたよ。俺、家で調べてみます」大翔がそっと微笑むと、爽子は戸惑いがちに次の言葉を探していた。
彼のまっすぐな視線に射すくめられると、どこへ目を逃がしていいか分からなくなってしまう。爽子はひどく危うい子どものように、その場に立ち尽くしている気がした。
◇
「ありがとうございます。それじゃわたし、そろそろ……」
爽子は腕時計に目を遣ると、大翔に向き直った。
「あ、はい。これ、見れてよかったです」
大翔は人差し指の先に、花びらをつまんで乗せた。
「ごめんなさい。びっくりしましたよね、突然……」
爽子は俯いた。大翔は髪を整えるようにして、右手で耳の上の髪をつまんで、にっこりと言った。
「びっくりしましたけど、驚いた甲斐がありました。こんな風景、一生見られないですよ、きっと」
「ほんとに……驚かせちゃいましたよね。よかったら今度、一杯ご馳走させてください」爽子は軽く微笑んで大翔に言う。
「澪さんのところで」爽子が言うと、大翔は小さく頷いた。爽子はもう一度時計を見て駅に向かうと告げると、大翔は「また連絡します」と、爽子を見送った。
◇
ピンク色の絨毯の広がる歩道を、ガードレールと古いブロック塀を擦るように、爽子は向かいから来た子連れの自転車の母親と会釈し、すれ違った。
狭い路地裏に入ると、切れかけた蛍光灯が、職員通用口と書いたプレートの古びた青い文字を照らす。
「おはようございます」
爽子は警備員に促されて台帳に記名した。着替えて白衣を羽織ると立て続けに、何人かの患者を診た。
「ふぅ……」爽子は小さく息をついた。
診察室のブラインドから窓の外を覗くと、向かいのビルの会社も、いつの間にか消灯していた。
生花店の銀色のシャッターの隙間から、硝子越しにきれいに並べられたラナンキュラスが見える。
「爽子センセ」
清掃員の大場路子だった。路子は満面の笑顔で診察室の横にある休憩室へ手招きした。テーブルには温かいココアがゆっくりと湯気を立てていた──
◇
路子が小さなシンクに立つと、古びた大きな給湯器からボッと点火する音がした。爽子が椅子を引くと、手をついたテーブルが軋んだ音を立てる。
「センセ、今のうちに飲んじゃってね」爽子が小さな白いマグカップにそっと口をつけると、すぐに飲めるように少しだけ冷ましてあるのがわかった。
「大場さん……」路子は爽子の意図に小さく頷くと、照れたように笑って洗い物を始めた。路子の動きに合わせて、エプロンの紐がリズミカルに揺れた。
「大場さん、いつもありがとうございます。帰るところでしたよね」爽子は底に沈んだココアをかき混ぜるように、マグカップをくるりと回した。
「いいのいいの、これが楽しみなの」路子は笑って、おそろいの白いカップに手を添えた。
路子の穏やかな笑顔と、ちいさくて丸い手の、太い指先が、触れなくても温かかった。
◇
「ねえ、センセ。そのひよこちゃん、彼氏にもらったの?」
路子は爽子の白衣に挿したボールペンに目を遣ると、幼なじみの母親のように、優しくほほ笑んだ。
「え?いえいえ、これは……。自分で買いました」爽子がキャラクターものを身に着けるのは初めてだった。
「時々その……キーホルダーを楽しそうに見てるから」路子はそう言って小さく笑った。
「やだ大場さん、よく見てますね」爽子もはにかんだ。
「でも残念。子どもの患者さんと話したくて、そこのコンビニで買っちゃいました」爽子の言葉は路子にはお見通しのように、でもそれ以上は尋ねないという素振りだ。
爽子は白衣の胸ポケットからペンを取り出した。
路子の楽しそうな声を聞きながら、ひよこの顔にそっと触れる。
路子はあてが外れて、ほんの少し未練の入った目線を爽子に向けると、爽子も冗談混じりに応じた。
爽子は路子の息子の話に耳を傾けているうちに、ふっと、悠里と母親を重ねたあとで、大翔の姿が頭をよぎった。
人差し指に乗せていた、あの薄い花びらの感触が、爽子の指の腹にも蘇ってくるようだった。
◇
タクシーが何台か、掠れた音を立てて通る度に、向かいの生花店の、シャッターの銀色が病院の看板の光をはね返す。
空のカップから、少し前まであったココアの温もりが立ち上がり、爽子は小さく息を吸った。
街は眠りにつく間際のように息をしていた──
執筆: 2026/5/17 かきおろし <了, 約 2,000 字>

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