グローバルAIガバナンス2025――「統一ルール」の幻想と、運用としての法雑感
0 はじめに
IAPP(International Association of Privacy Professionals)とHCLTechが2025年9月に公表した「Global AI Governance Law and Policy 2025」は、AIガバナンスの法と政策を、オーストラリア、カナダ、中国、EU、インド、日本、シンガポール、韓国、UAE、英国、米国という主要11法域で俯瞰する極めて重要な資料である。各法域について、歴史的背景、規制アプローチ、プライバシーやサイバーセキュリティ、知的財産、執行などを横断しつつ、近時の論点としてエージェンティックAI(agentic AI)にも触れる点が特徴である〔1〕。
この種の横断資料は、比較法の体系を与えるというより、現場にとっての地図を与えるものといえる。地図は道順を決めないが、迷い方を減らす。本稿は同資料を手掛かりに、2025年のグローバルAIガバナンスを読むときに残る、二つの誤解を整理する。第一に、世界はEU AI Actのような包括法に収斂していく、という誤解である。第二に、AIのリスクは「AI法」だけ見れば捕まえられる、という誤解である。これらの誤解を解きほぐした先に、企業実務が向き合うべき運用としての法の姿が浮かび上がる。
1 問題の所在――「AIガバナンス」は法域別チェックリストではない
企業実務で最初に出てくる問いは単純である。「どの国がAI法を持っているか」「何が禁止で、何が義務か」。法務・コンプライアンス担当者はこの問いに対し、各国の〇×表(チェックリスト)を作りたくなる。だが、この問いは現状の半分しか捉えていない。
AIを巡る統治は、(a)AIに特化した規律(AI Act型の包括法、あるいは特定領域のAI規制)と、(b)AIに特化していないがAIを確実に捕まえる規律(個人情報、サイバー、消費者保護、製造物責任、知財、オンライン安全、行政手続など)から成る二層構造である。
この二層のうち、実務を先に動かすのは往々にして(b)である。なぜなら、(a)は立法過程が長く移行期間も長い一方、(b)はすでに執行実績があり、事故が起きた瞬間に真正面から適用されるからである。
実際、IAPP資料においても、例えばUAEはAI特化法を持たないが、データ保護法や消費者保護法、サイバー犯罪法が実質的なAI規制として機能している現状が報告されている〔1〕。また米国においても、連邦レベルの包括的AI法不在の中で、FTC(連邦取引委員会)が既存の権限を用いて「AIを用いた欺瞞的行為」や「アルゴリズムによる差別」に対する執行を強化している。
したがって、AIガバナンスとは、法域ごとの条文を暗記する営みではなく、この二層を同時に回す運用設計である。言い換えれば、AIガバナンスの主戦場は、高尚な「規範」の策定よりも、日々の泥臭い「ログと文書」の管理にある。
2 断片化という問題――収斂ではなく、分岐を前提にする
IAPP資料を読むと、各国が「同じ山を別の登り方で登っている」ことが分かる。EUはAI Actを軸に、リスク区分、技術文書、適合性評価、市場投入後監視といった一連の制度を包括的に組み立てた〔2〕。これは製品安全規制のロジックをソフトウェアに適用した重厚なモデルであり、「ブリュッセル効果」による世界的な収斂が一部で期待されていた。
他方で、英国や米国は、AIに特化した包括法を欠く(あるいは限定的にとどめる)一方、既存規制とソフトロー、ガイダンス、標準化を組み合わせる姿勢が強い〔1〕。特に英国は、当初「AI Safety Institute」と名付けた組織を、2025年に「AI Security Institute」へと改称したことが象徴的である。これは、AIのリスクを「安全性(Safety)」という広い概念から、国家安全保障やサイバー攻撃への悪用といった「セキュリティ(Security)」の重大リスクへと焦点を絞り込み、その他の広範な規律は既存のセクター別規制当局(ICOやCMAなど)に委ねる分散型アプローチを維持する姿勢の表れである〔1〕。
さらにオーストラリアの動向は示唆に富む。レポートによれば、オーストラリアは当初、EU型のリスクベース規制(高リスクAIへの強制的ガードレール)の導入を志向していたが、現在ではより柔軟な「スタンダード主導(standards-led)」へと重心が移ったと整理されている〔1〕。これは、過度な法規制がイノベーションや生産性を阻害することへの懸念と、既存法の活用で十分対応可能ではないかという再評価による「再調整(recalibration)」の動きといえる。また、シンガポールも包括法を作らず、「Model AI Governance Framework」や「AI Verify」といったツールキットを通じて、企業の自主的なガバナンス能力を高める実利的なアプローチをとっている。
ここで重要なのは、どのモデルが「正しい」かを論じることではない。実務上の結論は単純で、収斂を待ってはいけない、ということである。むしろ断片化は長期戦になる。理由は二つある。
第一に、AIは産業政策そのものであり、各国の価値(安全保障、産業競争力、民主的統制、行政能力)を反映せざるを得ないからだ。中国が「生成AI」や「アルゴリズム推奨」に対して垂直的な規制を敷き、国家主導の産業振興策(AI Plus Action Plan)とセットで統治を進めるのも、その統治構造からは必然である〔1〕。
第二に、AIの実装はセクターごとに異なり、医療・金融・労働・教育・防衛で同じ規制密度が合理的であるとは限らないからだ。したがって、グローバル企業に必要なのは「単一の法モデルへの賭け(例えばEU基準に合わせておけば全世界で通用するという期待)」ではなく、「複数モデルを同時に走らせる耐性」である。
3 「AI法」の外側でAIが捕まる――プライバシー・サイバー・知財の再配列
AIを巡る法的リスクは、AI固有のものに見えて、実は既存カテゴリの再編であることが多い。IAPP資料が各国の章で「Wider regulatory environment(広範な規制環境)」に多くの紙幅を割いているのはこのためである。
第一に、プライバシーである。AIが高度化するほど、個人データの収集・推論・二次利用は「見えにくい形」で膨張する。特に、プロファイリングや自動化された意思決定(ADM)は、AIの性能ではなく、手続(説明、同意、異議申立て、監督可能性)を中心に規律される。EUではGDPRとAI Actが併走し、AIの用途次第で両者が同時に効く構造が前提となる〔2〕〔3〕。日本においても個人情報保護委員会がAI学習データの利用目的特定について注意喚起を行っているように、データ保護法制がAI開発のゲートキーパーとしての役割を強めている。
第二に、サイバーセキュリティである。生成AIは「賢いUI」ではなく、膨大なデータと外部システムへのアクセス権限を持つシステムである以上、攻撃面(attack surface)を増やす。モデルの脆弱性(プロンプトインジェクション等)、サプライチェーン汚染、権限濫用、情報漏えいは、AI倫理ではなくセキュリティ事故として起きる。この領域では、規制もまた「AIだから特別」ではなく、既存の安全保障・重要インフラ・製品安全のロジックで迫ってくる。米国や英国がAIセキュリティに関するガイドラインを矢継ぎ早に出しているのは、AIを「ソフトウェア製品」として厳格に管理する方向へ舵を切ったことを意味する。
第三に、知財である。学習と生成の二段階が絡む以上、「入力(学習データ)」「出力(生成物)」「モデル(重み)」のどこに権利を置くかが、法域ごとに揺れる。IAPP資料が各国編で知財を独立項目として扱っているのは、AIガバナンスが倫理だけで完結しないことの証左である〔1〕。日本のように著作権法第30条の4で広範な学習利用を認める国もあれば、中国のインターネット法院のように人間の創作的寄与を厳格に問う国、あるいは米国のようにフェアユースの司法判断が待たれる国など、その地図はまだら模様である。
結局のところ、AIガバナンスの難しさは、AI法の条文の難解さではなく、既存法の適用場面が急速に増殖する点にある。ここで必要なのは、個別法域の「差分」を追う能力より、どの法域でも共通に問われる説明責任の構造、誰が、どの情報に基づき、どの権限で、何を決めたかを、システムと手続に埋め込む能力である。
4 エージェンティックAI――「行為の委任」が法を難しくする
IAPP資料が2025年版において新たに強調する論点の一つが、エージェンティックAI(Agentic AI)である。エージェントは、単発の出力を返すだけでなく、目標を与えられると計画を立て、ツールを呼び出し、外部システムに作用し、複数ステップで業務を遂行する〔1〕。このとき、法的に問われるのは「結果の良し悪し」以前に、「誰が行為したのか」という主体の輪郭である。
従来のコンプライアンスは、人間が意思決定し、システムは補助する、という前提に立っていた。だが、エージェントは意思決定の粒度を細かく分解し、部分的に自律化する。すると、(a)権限付与(誰の権限で、どこまで動けるか)、(b)監督可能性(人間は止められるか)、(c)監査可能性(後から追えるか)、(d)変更管理(学習・自己更新・ツール追加で挙動が変わる)という、統治の技術課題が前景化する。
面白いのは、ここで各国が直ちに「エージェント法」を持ち出すのではなく、多くの場合は既存枠組みの中で処理しようとしている点である〔1〕。例えばUAEのDIFC(ドバイ国際金融センター)におけるデータ保護規則では、自律システムの利用に関する規定(Regulation 10)が存在し、人間による定義・承認の原則を定めているが、これも既存法の拡張である〔1〕。シンガポールが「Agentic AI Primer」を発行しつつも、既存のガイドラインの延長線上で捉えようとしている動きも同様だ。
だからこそ、企業側は「法律の空白」を期待してはならない。空白に見える場所ほど、既存法が別の角度から刺さる。エージェントが引き起こす事故は、高尚なAI法違反というより、個人情報漏えい、誤表示、契約違反、業法違反、セキュリティ事故として即物的に処理されるだろう。
5 雑感――「グローバル統一」ではなく「統治のモジュール化」へ
以上を踏まえると、グローバルAIガバナンスの要諦は、二つの分解にある。
第一に、法域差を「内部統制の差」に翻訳することである。各国法の差分を、システム台帳、リスク分類、文書化、評価、監査、インシデント対応、サプライヤ管理といった具体的な「統治モジュール」に落とし込む。モジュール自体が共通なら、法域差は設定値(パラメータ)の差として扱える。例えば、「リスク評価」というモジュールは共通にし、EUなら「高リスクAI」の閾値を、米国ならNIST RMFの基準をパラメータとして注入する運用である。
第二に、AIを「モデル」ではなく「プロセス」として管理することである。モデル単体の性能(精度やバイアス)より、データの出入り、権限、ログ、更新、外部委託、再学習、廃棄まで含むライフサイクル管理が中心になる。AIガバナンスが制度から運用へ移る、というより、最初から運用の問題であった、というべきである。
法はしばしば技術の後追いだと言われる。しかし、AIの領域では、法は「後追い」であると同時に、組織に文書と監査を強制することで、技術の不可視な暴走を抑える「先回りの装置」にもなる。2025年の地図が示すのは、世界が一つのAI法に向かって整列している美しい姿ではなく、断片化したまま、それでも説明責任だけは濃くしていく、厳格な実務の世界である。実務家に求められるのは、その地図を片手に、自社の現在地と進むべきルートを、既存法の羅針盤を使って定め続けることであるように思える。
(参考)
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参考資料
〔1〕International Association of Privacy Professionals=HCLTech「Global AI Governance Law and Policy: Jurisdiction Overviews 2025」(2025年9月11日)(https://assets.contentstack.io/v3/assets/bltd4dd5b2d705252bc/blt99e0fcaf81f99c30/global_ai_governance_law_policy_series_2025.pdf, 2026年1月2日最終閲覧)。
〔2〕Regulation (EU) 2024/1689 of the European Parliament and of the Council of 13 June 2024 laying down harmonised rules on artificial intelligence (Artificial Intelligence Act), OJ L, 2024/1689, 12.7.2024.
〔3〕Regulation (EU) 2016/679 of the European Parliament and of the Council of 27 April 2016 on the protection of natural persons with regard to the processing of personal data and on the free movement of such data (General Data Protection Regulation), OJ L 119, 4.5.2016.
(マガジン)「AIと法-雑感」
※目次は以下を参照
note総則規約3条2項前段
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