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本能寺の変1582 【5月26日】 3/8 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【5月26日】五日前 3/8

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】
 【信長の人物像】 6 7 8 9 10 【重史146】
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【5月26日】五日前 3/8

天正十年 目次

5月26日 (五日前)         目次 1/8~3/8 4/8~6/8 7/8~8/8   
                   本文 1/8~3/8 4/8~6/8 7/8~8/8

3/8
光秀は、滝川一益の上野入国を思い起こした。
         そ第75話
武田を攻め滅ぼした後。
一益は、伊勢に帰陣せず。
そのまま、上野に入った。
一益は、信長の命に従った。
そうする他、術(すべ)がなかった 。

信長は、諏訪法華寺にて、滝川一益に上野一国と信濃二郡を与えた。

  三月廿三日、滝川左近召し寄せられ、
  上野国、幷(なら)びに、信州の内二郡下され候。  

信長は、一益に、名誉を与え、最後の花道をかざってやろうとした。
一益は、五十八歳。          →【人物】 ◎第70話 そ第70話
高齢だった。
間もなく、六十代に突入する 

  年罷り寄り、遠国へ遣はされ候事、
  痛みおぼしめされ候と雖(いえど)も、

  関東八州の御警固を申しつけ、老後の覚えに上野に在国仕り、
  東国の儀、御取次、彼れ是れ申しつくべきの旨、上意、

  忝くも御秘蔵のゑびか毛の御馬下され、
  此の御馬に乗り候て、入国仕り候へと、御諚。
  都鄙の面目、此の節なり。
                      【 重史 022】『信長公記』

だが、これは、表向きのこと。
正に、問答無用。
上意下達。
一益本人の意向は、闇の中。
・・・・・。 

光秀は、すぐ側でこれを見ていた。              そ第75話
「明日は我が身」、である。
忘れられぬ、光景だった. 

斯くして、一益の老後は、定まった。 
北伊勢から、東国へ。
上野一国・信濃の内二郡を拝領。
「国持大名」
大出世である。

信長は、猜疑心が強い。                   そ第75話
有力な重臣を遠隔地に配した。
名目は、諸大名の監視。
その実は、危険分子を遠ざけること、・・・・・。
これこそ、「一石二鳥」。  

否、一益は、追いやられた。
すなわち、左遷、・・・・・。
その様な見方をする研究者もいる。

光秀にも、国替えの可能性があった。
一益の一件を見れば、そのことがよく分かる。                               

近江志賀一郡・丹波一国を返上。
そして、西国の内、何処かの国へ。

タイミングとしては、毛利氏を滅亡させた後の論功行賞によって、
ということになるのだろう。

とすれば、・・・・・。
国替えもまた、その一因となり得る。
光秀が、それに不満を持っていればではあるが・・・・・。



 ⇒ 次へつづく



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