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本能寺の変1582 9光秀という男 ◎小51~59①② 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

9光秀という男 ◎小51~59①② 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
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【 重要史料 】 【 人物 】 
*加筆修正 

9光秀という男

 1フロイスの証言  重要 ◎第51~52①②話 ◎小51~52①②
 2立入宗継の証言  重要 ◎第53~54話   ◎小53~54
 3土岐氏      重要 ◎第55~56①②話 ◎小55~56①②
           重要 ◎第57①②~58①②③話
                       ◎小57①②~58①②③
 4教訓       重要 ◎第59①②話   ◎小59①②

                       ◎小51~59①②

1フロイスの証言

 ◎第51話 ◎小51    第51話  小

 天正十年1582、三月。
 光秀は、坂本にいた。
 信長の出陣命令を待つ。
 坂本城は、明智の誇りであった。            『日本史』

 ◎第52話① ◎小52①   第52話  小

 これが光秀の実像である (①~⑭) 。
 ①光秀は、織田家の新参者だった。
 ②光秀は、典型的な戦国武将だった。          『日本史』
 ③光秀は、信長と同じタイプの人物だった。
  「同じ穴の狢(ムジナ)」
 ④光秀は、築城に秀でていた。             『日本史』
  勉強家・努力家だった。
 ⑤光秀は、信長に従順だった。             『日本史』
  立身出世の裏には、涙ぐましい努力があった。
 ⑥光秀は、洞察力に優れていた。            『日本史』
  信長の気性をよく知っていた。

 ◎第52話② ◎小52②   第52話  小

 ⑦光秀は、兵法に精通していた。            『日本史』
  
光秀は、勤勉家。
  努力の人だった。
  話が合うのだろう。
  信長が重用した一因でもあった。
 ⑧光秀は、できる男。                 『日本史』
  信長の天下統一事業に大いなる成果を上げた。
  光秀は、「隙」のない男。
  信長を瞞着していた。
 ⑨光秀は、大身である。                『日本史』
  信長は、褒美として、志賀一郡・丹波一国を与えた。
 ⑩光秀は、度々、主を変えている。
 ⑪光秀は、上昇志向の強い男。
  主替えによって立身出世した。
 ⑫光秀は、忠義心が希薄だった。
 ⑬光秀は、下剋上の人だった。
  光秀は、少なくとも、二度、下剋上を行っている。
  一、元亀四年1573 将軍義昭を追放。
  一、天正十年1582 信長を殺害。
  明々白々。
  正に、戦国武将そのものではないか。
 ⑭光秀は、立身出世のために主君を利用した。

  なるほど、立身出世はした。
  「持てる者」には、成った。
  なれど、「悩みは、尽きず」、・・・・・。

2立入宗継の証言

 ◎第53話 ◎小53   第53話  小

 「立入左京亮入道隆佐記」
 前代未聞の大将なり。           「立入左京亮入道隆佐記」
 立入宗継は、歴史の証人。         「立入左京亮入道隆佐記」
 光秀は、美濃の出身。           「立入左京亮入道隆佐記」
 土岐氏の家臣だった。
 美濃に在住していた。
 弓取りはせんじてのむへき事に候。     「立入左京亮入道隆佐記」
 光秀は、世間からも、注目されていた。
 光秀は、土岐氏の随分衆だった。

 ◎第54話 ◎小54   第54話  小

 立入宗継は、朝廷の御蔵職。
 光秀は、立入宗継のことをよく知っていた。
 立入宗継も、光秀のことをよく知っていた。     「立入宗継文書」
 光秀は、美濃に親戚がいた。              「兼見卿記」

3土岐氏

 ◎第55話 ◎小55     第55話  小

 光秀の明智氏は、土岐氏の一族である。
 光秀は、誇り高い男。
 ①土岐氏の家紋 桔梗紋
 ②愛宕百韻 「時」= 土岐              「続群書類従」
 土岐氏は、清和源氏の一流である。
 すなわち、清和源氏 ― 摂津源氏 ― 美濃源氏という流れになる。
 源頼光が摂津源氏の祖とされる。
 土岐氏は、美濃源氏の嫡流家であった。
 土岐氏は、鎌倉期に美濃に土着した。
 光衡が土岐氏の初代とされる。
 土岐頼貞の時、初めて美濃の守護になった。
 以来二百余年、土岐氏は美濃の守護を歴任した。

 ◎第56話① ◎小56①   第56話  小

 土岐頼遠は、足利尊氏の時代の人物である。
 室町時代は、この尊氏から始まった。
 頼遠は、婆娑羅大名。

 ◎第56話② ◎小56②   第56話  小

 室町幕府は、十五代、240年つづいた (①~③) 。
 ①初代~第五代将軍
 ②第六代~第十一代将軍
 ③第十二代~第十五代将軍
 光秀は、大永四年1524±四年~天正十年1582を生きた。
 光秀は、③の時代を 〃 。
 光秀は、室町時代の末期を 〃 。
 光秀は、戦国時代の後半を 〃 。

 ◎第57話① ◎小57①   第57話  小

 土岐頼康は、足利尊氏・義詮・義満の時代を生きた。
 頼康は、濃・尾・勢、三ヶ国の守護を兼任した。
 頼康は、土岐氏の全盛期を築いた。
 頼康は、文武両道の人であった。
 光秀にとって、土岐頼康は憧れの人だった。
 光秀には、頼康と相通じるものがあった。
 光秀は、上昇志向の強い男。
 頼康を、強く意識していた。

 ◎第57話② ◎小57②   第57話  小

 土岐氏は、土着性のきわめて強い一族だった。
 土岐氏は、一族の結束が強かった。
 「土岐の桔梗一揆」
 土岐氏は、一族の数が多い。
 明智氏も、その様な家の一つだった。
 光秀の体内には、土岐の血が脈々と流れていた。
 光秀の妻は、妻木氏の出である。
 光秀の妹、妻木氏。
 光秀と石谷氏。

 ◎第58話① ◎小58①   第58話  小

 第三代将軍足利義満の時代。
 義満の略歴。
 義満は、将軍専制政治を目指した。
 義満は、富士を遊覧した。
 第六代将軍足利義教も、富士を遊覧している。
 義教は、信長と比されることが多い。
 一、専制政治
 一、富士遊覧
 一、比叡山攻撃
 一、「万人恐怖」                   「看聞日記」
 一、嘉吉元年1441。
   義教は、赤松邸に「御成」したところを同氏に襲われ、斬殺された。
   実に、呆気ない最期であった。
   享年、48。

 ◎第58話② ◎小58②   第58話  小

 信長は、故事に明るい。
 信長の富士遊覧。
 義満は、厳島神社を参詣した。
 信長と厳島神社。
 中国出陣の時、信長は、淡路島に本陣を置くつもりだった。
            「寺尾菊子氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」

 ◎第58話③ ◎小58③   第58話  小

 将軍義満は、有力守護の弱体化を画策した。
 義満は、土岐氏を危険と見た。
 土岐頼康が死んだ。
 土岐康行が頼康の跡を引き継いだ(世安家)。
 義満は、康行を挑発した。
 土岐康行の乱。
 康行は、義満の罠に嵌まった。
 康行は、没落した。
 義満は、土岐頼忠を美濃の守護に任じた(西池田家)。
 土岐氏は、解体された。
 「土岐の桔梗一揆」は、崩壊した。
 以後、土岐氏は衰退への道を歩む。

4教訓

 ◎第59話① ◎小59①   第59話  小

 光秀は、土岐の歴史から教訓を得た。
 一、主君ならばこそ、油断すべからず。
 一、頼むべきは、己の力ただ一つ。
 一、打つ手を違えれば、明智は消滅する。
 光秀の脳裏には、常に義満と信長があった。
 光秀は、自身と光慶を土岐頼康と康行に重ね合わせた。
 そして、将軍 義満を 信長に置き換えた。

 光秀は、戦国の世を生きぬいて来た男。
 典型的な戦国武将なのである。
 信長を信用していない。

 ◎第59話② ◎小59②   第59話  小

 光秀は、新参者。                   『日本史』
 光秀は、信長の性格を知り尽くしていた。        『日本史』

 信長は、合理主義者。                  「史記」
 信長は、恐ろしい男。
 一瞬たりとも、気の抜けぬ相手。
 光秀は、この様な緊張感の中で、信長に仕えていた。

 光秀は、用心深く、疑い深い。
 言い換えれば、慎重かつ堅実。
 失敗せぬ男、出来る男、役に立つ男、なのである。

 光秀は、典型的な戦国武将。
 目的遂行のためには、手段を選ばぬ男である。 

 光秀には、先が見えた。 
 残り時間は、少ない。
 光慶は、若すぎる。
 明智は、大きくなりすぎた・・・・・。

 信長は、光秀を信用してない。
 光秀もまた、信長を信用していない。
 相互不信の時代。
 それが、戦国時代なのである。
 絶対専制君主と、新参者の家臣。
 恐ろしい男と出来る男。
 天下布武と立身出世。
 その結末が、「本能寺の変」だった。

 光秀は、忠義心が薄い。
 光秀は、少なくとも、二度、下剋上を行っている。
 一、元亀四年(天正元年)1573、将軍義昭の追放。
 一、天正十年1582、「本能寺の変」。

 光秀は、自立心が旺盛だった。
 言い換えれば、そうなる。
 独立心が強かった、ということである。
 これもまた、戦国時代ならばこそ。

 なれど、信長は、自立を赦さず。
 赦すわけがない。
 それが、信長。
 絶対専制君主。
 荒木村重を見よ!!

 信長は、不意を衝く。
 光秀は、粛清を怖れていた。

 光秀は、先手を打った。
 それが、「本能寺の変」。

5斎藤氏の盛衰

   小   60   61

6長井新左衛門

   小   62

7美濃の争乱

    小   63   64



 ⇒ 次へつづく

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目次 が更新されました。

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 原因・動機の究明は、この一歩から!!

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 「本能寺の変」
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