本能寺の変1582 【5月27日】 1/3 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【5月27日】四日前 1/3
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 【重史146】
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【5月27日】四日前 1/3
1/3 【重史028】 ✓ 天正10 158200527
信長は、上洛を決めた。
「一両日中」、とある。
すなわち、二十七二日(今日)か、二十八日(明日)か、二十九日(明後日)か・・・・。
その旨を、京都所司代 村井貞勝へ伝えた。
宿所は、「本能寺」。
また、貞勝は、信長の広報担当官でもあった。
したがって、このことは、やがて、公家たちの知る所となる。
すなわち、信長の上洛情報は、オープンだった。
信忠は、信長の上洛を知った
情報源は、村井貞勝か・・・・・。
信忠は、京で、信長を待っていた。 【重史028】
①家康は、明日、大坂・堺に罷り下られ候、
②中国表、近々、御馬出さるべきの由候条、
③我々、堺見物の儀、先ず、遠慮致し候、
④一両日中に、御上洛の旨候間、是に、相待ち申し候、
「小畠文書」
①家康は、明日(二十八日)、大坂・堺へ下向する。
信忠は、京に残る。
②信長は、「近々」、中国へ出陣する。
近日中・・・・・。
否、数日中・・・・・。
その日が、近づいていた。
何やら、急に、慌ただしくなって来た。
③信忠は、それより前に、出陣するつもりだった。
「堺見物」などしている場合はない、ということ。
時代の流れが、一段と、速さを増す。
④信長は、「一両日中」に上洛する。
秀吉から、新たな注進があったのだろう。
事態は、いよいよ、差し迫って来た。
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