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厚労省医系技官34年を振り返ってみた

はじめに


厚生労働省に医系技官という職種があります。

医師免許を持ち、厚生労働省内では、医療や公衆衛生に関わる分野の仕事に従事するほか、他の省庁、国際機関、地方自治体で仕事をすることもある行政官です。

宮崎県椎葉村出身の私は、医学部を卒業後、当時の厚生省に入省し、34年間にわたり、医系技官として様々な分野の仕事に携わってきました。

厚生労働省でどのような経験をしてきたのか、国の省庁での仕事とはどんなものなのか、お話しをさせていただたいと思います。

厚生労働省の医系技官としての34年を終えて、今、私はふるさと宮崎に帰っています。

34年間、本当にいろんな部署に行き、さまざまな仕事をしましたが、振り返ってみると、あっという間でした。

一言では言えませんけれども、走りきったなという感じがします。

疾走中は、景色も見えず、何が何やらわからない感じがしましたが、振り返ってみるといろいろやってきたなという実感が残っています。

医系技官に興味がある医学生や、将来、厚労省で医療や公衆衛生、社会保障、国際保健などの分野で働いてみたいという方は、ぜひご一読をお勧めします。

この記事が、誰かの将来の仕事を選ぶきっかけになると信じています。

生まれたのは椎葉村

私は、昭和38年の2月に椎葉村に生まれました。

父が郵便局員で、母が旅館と食堂を経営しておりました。

両親と青島で

椎葉村には「椎葉」という苗字が多いです。

半分ぐらいが「椎葉」です。残りの半分は「那須」でした。

学校に行っても姓では呼ばれずに、皆、下の名前で呼ばれてました。

高校に行って初めて姓で呼ばれました。そのとき、人は名前ではなく姓で呼ばれることを理解しました。

医学部に進んで、医師になろうと思ったきっかけがあります。

小さい頃は歯が悪くて、よく病院に通ってたんですが、そこの歯科医の先生が血液を顕微鏡で見せてくれました。

子ども心にすごく感動して、その後、父が顕微鏡と医学の図鑑を買ってきてくれました。

その本を繰り返し読んで、医師という職業があるんだなあというのが分かりました。

父が買ってきてくれた医学の図鑑

小学校、中学校は椎葉村内の学校に通って、高校は宮崎市にある宮崎西校に行きました。

3年間下宿生活をして、自転車で西高に通いました。

西校の理数科のクラスは医学部希望者が多く、自分も行きたいと思いました。一浪して福岡県北九州市にある産業医科大学という大学に行きました。

産業医科大学で学んだ

新設大学で、私は5期生でした。まだ6年生まで揃っていませんでした。新設大学なので、先生方も野心的でした。

入ってきてる学生たちも変と言うか、いろいろキャラクターが濃い人がいっぱいいて、これがまた面白かったです。

医学部の3年の生理学の実習のときに、グラム単位で体重がわかるような精密な体重計に乗りました。だんだん体重が減っていきます。

生理学の教授から、「これはなぜ減るのか?」と質問をされました。答えられなくて、「それなら君は留年だ」と実習の場で言われました。

産業医大のラマツィーニ像

なぜに体重が減るのか?

これはですね、身体から水が蒸発していくのです。

この現象を生理学では「不感蒸泄」と言うのですが、こんな基本的なことを、私は答えられなかったのです。

さらに教授は質問を続けました。できない医学生をいたぶるような感じです。

「代謝を亢進させるホルモンが分泌されると、さらに不感蒸泄が増えるが、そのホルモンとは何かね? 留年脱却のチャンスだ」

そのとき、私は確かに空から神の声を聴きました。

「チ、チロキシン」

すると教授は驚いて、なんだ君は知っているじゃないかと、留年は取消になったのです。

チロキシン、またはサイロキシンといい、日本語では「甲状腺機能亢進ホルモン」といいます。名前のとおり、甲状腺から分泌されるホルモンです。

このホルモンが過剰に分泌される病気が、バセドウ病です。典型的なバセドウ病は、体重減少が起こるので痩せています。

教授は、甲状腺ホルモンについて解説をしました。その後、私への質問は無くなりました。

なぜ私がチロキシンについて知っていたのかと言えば、高校の生物学の知識でした。

「代謝の亢進」というキーワードとともに「チロキシン」というホルモンを丸暗記していました。

「留年の危機」という絶体絶命の状況下で、教授の「代謝の亢進」という言葉に、私の脳の海馬がフル活動して、長期記憶の貯蔵庫から呼び起こしてくれたのだと思います。

3年の生理学は、体を張った実験をたくさん行い、しかも留年だと脅されたこともあり、還暦を過ぎた今でも、不感蒸泄でうなされる夢を見ます。

4年生の公衆衛生学の講義のときに、厚生省の課長さんが来られまして、講義をされました。

講義の最後に医系技官というのがあるので、君たちも来ないかということをおっしゃっていました。

講義はあまり面白くなくて、ほとんど眠っていましたが、その時は起きていて、「そんな職業があるのか」と頭の片隅に残っていたというのが真相です。

6年生の時に臨床実習というのがあるんですが、その時に九州労災病院に実習に行きました。

そこの外科の部長さんの外来につきました。

ちょうど患者さんが途切れた時に、「君は何科になるんだ」という質問をされました。

「はい、作家です」と冗談で答えたら、その先生はまともに受け取って「作家になるんだったら、まさか。精神科に行くんじゃないだろうな?」と言われました。

「精神科に行こうかと思います」と答えました。

すると「精神科の作家はいっぱいいる。そんなところに行っても君みたいなやつは全然売れない」と言われました。

「他の科を目指せ。例えば外科はどうだ?」と言われて、危うく外科医にさせられるところでした。

その時に「厚生省の医系技官というのもある」という話をしたらその先生が「それは面白い。そういう作家は今のところいないからそっちを目指したらどうか」ということで,アドバイスをいただきました。

医学部を目指そうとしたのも、中学生になったときに北杜夫さんの「どくとるマンボウ昆虫記」というのを読んで、昆虫好きで、しかも作家なんで、なるほど、医者になって作家になる手もあるなと、北杜夫さんを目標にしたところがあります。

それで公衆衛生学の教授のところに相談に行きまして、そうするとその教授がいきなり電話をかけて、厚生省の局長が同級生だったようで、「今度の夏休みにうちの若い学生が行くのでよろしく」ということで日にちまで決めてしまいました。

行けと言われたので、夏休みになって上京して厚生省に見学に行くことになりました。

厚生労働省

厚生省を見学してみた

厚生省は、大変面白くて、若い医系技官の方々が何人か来て、一緒に飲みに連れて行ってくれたんですが、その時の話は大変面白かったので、行こうかなと決めました。

まず、法律を作るだとか、国会議員といかに調整するかとか、予算を要求するのに、大蔵省とどう調整するか、マスコミの取材をどう対応するかとかの話がありました。

全ての案件はだいたい日本医師会が「うん」と言わないとできないので、医師会との調整だとか、全ての医療行政は都道府県を通じて行われるということを聞きました。

全く初めて聞く話だったので、これは面白いなと即決しました。

12月に選考試験がありました。小論文と、幹部の面接でした。

医系技官は、医者を対象にしていて少ないので、選考試験にパスすればいいという、そういう扱いになってました。

国家試験に落っこちたという人は、すぐ辞表を書かされました。

医師の免許を取る国家試験は、我々の頃は3月の末で、合格発表が5月でした。4月に入省して残念ながら落ちた者は、その日で辞職です。

答え合わせしたら大丈夫だったんで、まあ、辞職はないなと思いました。

卒業式に両親と

中央官庁での仕事

最初は厚生省ではなく、私は労働省に出向となりまして、労働省労働基準局安全衛生部労働衛生課というところに配属になりました。

まず、課の職員の方々の机の上の灰皿の掃除であるとか、ゴミ捨て、毎日の新聞の切り抜きだとか、夕食の出前取りとか、そんなことばっかりしていました。

当時は新聞の記事をちゃんと、毎朝、全国紙と東京新聞の記事を見て、自分の所属する労働衛生課に関係のある記事をきちんと切って、貼って1枚の紙にして、課長以下、職員の机の上に置いておくというのがしきたりでした。

役所は印鑑が全てで、局長印を取るために、いろんな課の課長さんの印鑑を割らないといけないんですが、これが大変で、なかなか印鑑を押してくれないんですね。

「俺は聞いてない」とか、「この文章が悪い」とか、「判子の位置がおかしい」とかです。

そういう、なんといいますか、中身の話ではなくて、形式論がほとんどでした。

当時は職場の喫煙が普通に行われていたんですけども、受動喫煙などもあるので、職場の喫煙を制限する方向に持っていこうということで検討会が開かれて、その記者発表資料を私が作ったんですが、これを作る際にかなり手が入りまして、勉強になりましたね。

結局、自分が書いた文章が一字も残らないんです。

記者発表は、役人人生ででずっと関与しましたが、記者とのプロレスのような感じで、大変勉強になりましたね。

国会対応は大変だった

国会会期中はすごく忙しいです。

国会答弁っていうのがあります。国会議員の先生方が前日に、質問通告をされます。

質問通告をされた省庁は担当官が,議員会館に出向いて、質問取りという、議員がどういう質問されるかということを事前に聞きます。

それを持ち帰って答えを作るんですけども、これがまた大変で、簡単なことを聞くならすぐ終わるんですが、むちゃくちゃ難しいことだとか、他の省庁にまたがる問題だとか、すごく答えにくい問題だとか、そういうのがいっぱい来るとですね、もうなかなか難しいんです。

何週間も前だったらいいですけども、1日前ということで、優しい先生は昼ぐらいに通告してくださるんですが、そうじゃない先生は、例えば夜の9時とか。

しかもファックスだけで問いが来て、例えば簡単に「介護保険について」です。これでは何を聞くか全くわからない。

翌日の国会で答えられないと、議員から「通告したはずです」と叱られます。

ああ、これはさすがに、理不尽かなと。

国会議員にはいろんな人がいます。私は、ある議員の国会質問で、くびになりかけたことがあります。

国会議事堂。右が衆議院、左が参議院。

委員会の開催日は決まっています。

火曜日と木曜日だとか、水曜日と金曜日とかいうふうに衆議院と参議院で決まってたんで、ということは月曜日以外はほとんど毎日全部詰まってるんですね。

そうすると、例えば大きな事件が起こったりすると、その答弁を作るのに疲弊して本当に寝られないとかですね、そういうことも結構ありましたね。

まず答えを作って、決裁を取るんです。

決裁を取って、それが終わるのはま夜中で、翌日は朝早く行って、今度は大臣にレクチャーをします。

「議員はこのような問題意識を持って質問しますので、このように答えてください」というのを解説します。

そしてその後、今度は国会に行って、「随行」と言って、大臣や局長の後ろに座るんですね。

大臣や局長がちょっと答えにくいのがあると、後ろから紙を出して、これで答えてください。

想定問答というのを用意したり、もしくは議員がこれを聞くかもしれないというのを、過去の質問された案件から答弁資料を持ってきて、それをめくってパッと出すとか。

そういう、なんて言いますか、大変な仕事でした。

かなり予測をして、あらゆる質問があっても答えられるようにする。

それができる役人は生き残ります。

用意しないと「なんだ。後ろについておきながら、なんで局長を支えていないんだ」と後で叱られるんです。

厚生労働委員会で答弁をした

質問は、例えば法案を審議する時は1日100問ぐらい出ます。ですから寝られないんですね。

100問に答えるって大変なことです。

法律は、これは衆議院と参議院を通さないとできないもので、これが一番大事です。

次に法律の下に政令というのがあります。これは閣議、内閣が作れる文書ですね。

その下に今度は省令というのがありまして、これは各省庁が作れる文書です。

その下に告示というのがありまして、これは大臣が作れる。

その下に通達というのがありまして、これは局長が出す文書と、その下に課長が作る内翰というのがあります。

千差万別いろいろあるんですが、これらを作るのが我々行政官の役目です。

省令までは法令的な性格があって罰則を伴うんですが、それより下は罰則を伴わない、いわゆる行政指導レベルです。

その代わり、かなり微に入り、最に入り、こうしろ、こうしろと書いてます。

それはやらないからといって罰則はないんですが、できるだけ守ってほしいという、そんな役割です。

法律とか国の方向性が決まるものを自分たちの手で作り上げているっていう、気概みたいなものがありました。

やっぱり日本の社会保障をよくしようとか。

例えば国民皆保険というのは、国民の全ての方に医療を受けていただけるような保険制度を作ったということです。

アメリカはこうした公的な保険はありません。

これを日本は世界で4番目に実現しています。

それなりの気概があって、日本のどこに住んでいても医療を受けられない人をなくすために、そういう大きなことをやったんだと思いますね。

先輩方が本当にすごいことをやったなと思いますね。


県総合博物館のマタニティマーク。創設に関わった

想い出に残る仕事

本当にいろんなセクションを、大体2年ぐらいで回りました。

病院や、地方の保健所などにも行きました。

想い出に残っている仕事があります。

今につながっているのは、厚生省の児童家庭局の母子保健課というところで課長補佐をやったんですけども、その時に葉酸をですね、妊娠初期に葉酸のサプリメントを取ると神経管欠損症という病気が予防できるだとか、そのために葉酸を飲みましょうという課長通知を出したりとかですね。

それから、新生児の聴覚検査ですね。

これは予算事業ですけれども、私が予算要求をしたことで、きっかけを作ったなということで思い出に残っています。

葉酸は妊娠初期の女性が飲むと赤ちゃんの神経管欠損症という,病気の予防になるんですね。

これはイギリスのお母さん用の本に載ってるんです。

発生学のテキストを見ると載っていて、あれこれ、なんで日本でやらないんだろうと不思議に思いました。

自分がもし母子保健課に行くことがあれば、これをやってやろうと思っていたら、偶然、母子保健課に行くことになりまして、よし、これやるぞということでやりましたね。

今、保健所の職員に聞いたら、私も飲んだという声が多いので、多分一般的ではないかと思います。

課長通知を各都道府県知事、それから日本医師会や日本産婦人科学会とかに出しましたね。

スムーズにいくかと思ったら、栄養の担当官などは、そもそも栄養は自然に摂取するのが普通であり王道であると、サプリメントは邪道だということで戦いがありましたね。

葉酸は、野菜に多く、野菜をいっぱい食べろということなんです。

妊娠初期はつわりだとかいろいろあって、なかなか食べられないだろうから、それよりも、しっかり用量が決まったサプリメントを飲むのが一番いいということで推しましたね。

生まれたばかりの赤ちゃんの聴覚検査、聴覚スクリーニング事業も創設しました。

今はもう宮崎県で生まれたお子さんは全員やってます。

これ赤ちゃんが聞こえますかはいって手を上げるわけじゃないので、反応を見るんですね。そういう医療機器がありまして、脳波をキャッチして聞こえているというのがわかるという、すぐわかる検査なんです。

耳の聞こえというのは、療育というのが大事で、早くからトレーニングをするということで、コミュニケーションができるようになります。

人工内耳とかですね、そういう手術も可能です。

そういったことを組み合わせて、早く療育をすることによって、聞こえのハンディがなくなります。

当時の大蔵省の主査もモデル事業ですよねということで認めてくれたんです。

これを進めるにあたっては、産婦人科の先生方と、小児科の先生方と、それから一部の耳鼻科の先生方とやったんですが、耳鼻科の御大の先生方が「我々は聞いていない」と言ってきたのです。

それで耳鼻科学会の幹部のところに課長と私で行って説明したことがあります。

みんなにわかってもらうっていうのが結構大変で、一番多い理由は、「俺は聞いてない」です。

その辺を全部にわかってもらって、前に進めることが大事です。

長渕剛さんのホールド・ユア・ラストチャンスは、東京に出て行って厚労省に行こうと決めた歌です。

ちょっと迷いはありました。

この歌は、NHKの「まんが道」という藤子不二雄さんの自伝をドラマにしたもので、彼らが富山から東京に行って、二畳一間の部屋に二人で住んで漫画家を目指しました。

これを見て、「よし、やっぱり東京に行ってやってやるか」という気になりましたね。

特に2番の曲が好きでした。


医系技官というのは、毎年、10人くらい入省してきます。

厚労省全体からすると本当に少しです。

私の最終ポストは地方局の局長でした。

本省の局長からすると格は落ちますが、同じクラスです。

大臣がいて、副大臣がいて、大臣政務官がいます。
ここまでは、政治家がなります。

省庁のトップが事務次官で、その下が局長になります。

局長の下は、審議官もしくは部長です。

その下が課長です。その下が室長で、その下が課長補佐もしくは専門官。

その下が係長。その下がヒラです。

乳がん検診にマンモグラフィーを導入

そこを順々に上がって、行きながらいろんな仕事をしたのですが、何か思い出に残っているものといえば、今に通じる話として、老健局の老人保健課の課長補佐の時に、乳がん検診の改正をしました。

それまで視触診だった乳がん検診を、マンモグラフィーという医療機器を入れてやれるようにという、そういう改革をしたのが想い出に残っています。

今は乳がん検診に行くと、だいたいマンモグラフィーが一般的ですが、まだそういうものがなかった時代でした。

視触診が主流で、それで見逃しもありまして、見逃されて末期がんになったという患者さんが、ある全国紙の新聞記者とお二人で私のところにやってきて、なんとかしてくれと言われました。

マンモグラフィーに変えて欲しいというようなことをおっしゃられて、その時にじゃあ変えますと答えました

そこにはがんの発見が遅れた方の思いを受け止めて、実現させたということです。

これは局長がすごい人でした。

すぐ国立がん研究センターの総長のところに行くぞということで、「何か資料があるか?」と言われた時に、たまたま私の部下の医系技官が資料を作ってて、それを持って行ったら、がんセンターの総長が、「これでいい。この通りやればいい」ということで、局長も「じゃあこの通りやれよ」ということになりました。

その後に専門家を集めて検討会を作ってやったんですが、最後の最後にいろいろやられましたね。

マンモグラフィーは高いので、これを整備するのはお金がないと。そういう予算の問題ですね。

各病院が導入しなければいけない。検査機関だとか、病院、医療機関ですね。そんな金はないと。

その時には2分の1の補助制度をつくってですね、これを使ってくれということでやりましたので、なんとかうまくいったかなと思いますね。

それ以降、マンモグラフィーが一般的になってきたということです。

特に若い40代ぐらいの。お子さんがいて、しかも職場では中心人物の女性が乳がんにかかって、最悪の場合、命を落とすとか。

本当にそれは辛いことなので、40歳以上の女性は、2年に一度マンモグラフィーを受けていただいて、早めに見つけて予防していただきたいなという思いがひとしおです。

乳がん検診とか、こういうがん検診というのは、日本では、かなり低かったんですけど、今はだいたい半分ぐらい,受けるようになってきて、それでも諸外国と比べるとちょっと低いんですね。

もっと頑張らないといけないです。

この局長の下で、リハビリテーション改革も手がけました。私の髪は、もともと黒かったのですが、2年間で真っ白になりました。(笑)

東日本大震災での対応

東日本大震災の時には、
東京電力福島第一原子力発電所の復旧作業の現地対策本部の医療班長ということで、突然「明日から行け」と言われまして、行かされました。

2011年の3月の終わりでしたね。

福島県現地対策本部医療班長

まだまだ本当に直後で、まずは医療体制の整備だということでした。

第一原発から半径20キロ以内は救急車が入れないんです。

放射能の影響を受けるということです。

当時、第一原発、第二原発を合わせて1日約5000人の作業員が働いていました。

もし事故にあったりとか、病気になったりしたら救急車が入れないし、どうやって病院に運ぶかという問題がありました。

しかも病院はですね、放射能で汚染された可能性のある患者を診察するのは嫌だと言ってました。

それを払拭するために、Jビレッジというところに除染施設を作って、そこできちんと測定をして、ピュアですということで病院に送るようにしました?

症状がひどい場合は、福島県立医科大学までヘリコプターで行けるようなルートを設けたり、こういう一連のシステムを作り上げて帰りました。

1週間滞在して、体制を作りました。
これもかなり大変でしたが、福島の消防や医療関係者が協力してくれました。

除染っていうのはシャワーです。

水で洗うんです。そうすると落ちるので。

全身きれいにシャワーでその取り除いて、それで測定をして、普通の人と同じレベルだということになって初めて病院に行けるんですね。

大震災の直後に行かれて感じたことは、やはり医療が大事だなと思いました。

第一原発の中にお医者さんが欲しいというのもありまして、当時、吉田所長さんですかね、亡くなりましたけど、彼がすごく所長として頑張っておられて、何とかして医師をお願いするということで、産業医大から連れてきたんですね。

産業医大は、学長まで第一原発の中に入りました。

大学を挙げて、精一杯応援をしました。

全国に80医学部が当時あったんですが、これだけ支援したのは産業医大だけです。

産業医大卒業生との出会い

産業医科大学という名前がついているということは、産業と関わる医療にっていうことで、まさに産業保健とかですね。

労働衛生というか、働く人の健康を守る大学なので、そういう遺伝子がみんなあったんですね。

2011年の4月21日に第一原発の入り口のJビレッジに結集した医者が6人いたんですが、全員産業医大の卒業生でした。

嬉しかったですね。みんな所属が違うんですね。

新潟労災のドクター、広島大学のドクター、それから救急医学会のドクター、東京電力のドクター、それから厚労省が私、そして産業医大から。

ということで、みんな所属が違うのに聞いたら、卒業が産業医大だと。びっくりしました。

Jヴィレッジに集まった6人のドクター

防衛省で新型コロナウイルス感染症対策を担当した

コロナが流行し始めた頃、一番最初にダイヤモンドプリンセス号にも関わりました。

当時、防衛省の大臣官房衛生監という,ポストについてました。自衛隊の衛生のトップです。

ダイヤモンドプリンセス号の中の乗客乗員が4000人近くいたんですが、その彼ら彼女らのPCR検査をやらないといけないということで、これに自衛隊の医官と看護官を相当つぎ込みました。

また薬剤官という、薬剤師の資格を持った自衛隊員も派遣しました。

乗客の半分の2000人ぐらいは、薬が必要な方々 でした。高齢の方も多く、持病のためのお薬が必要だったのです。

6割ぐらいは外国人なんですね。ですから、世界各国の薬、わけわからないのを、その3人の薬剤官が調整して、全部揃えたんです。

また、PCR検査は、医官と看護官が喉から咽頭ぬぐい液を採取する大変危険な作業でした。


ダイヤモンドプリンセス号の患者で、PCR検査陽性の人を自衛隊中央病院が100人ほど入院させたんですね。

その時に90人くらいの唾液を取ってまして、その唾液で調べたところ、咽頭ぬぐい液と全然差がないと。

発症後9日以内であれば、唾液であろうが咽頭液であろう同じだということがわかりまして、それで唾液に変わったんです。

全国の病院で、陽性者の唾液を取って凍結保存をしていたのは自衛隊中央病院だけです。

自衛隊中央病院

こういう功績があるんですが、自衛隊の医官、看護官、薬剤官の方々は一切こういうことを言わないんです。

自衛隊衛生はこんなことをやったと自慢してもいいはずなんですけども、「我々は命令に従っただけだ」としか言いませんので、私が言わせてもらいます。


官邸から防衛省の事務次官に連絡かあるんですね。

それがそのまま全部衛生監の私にくるんですね。

医官を出せとかですね。看護官を出せとか、そういうことを言われるわけですよ。

その命を受けて、今度は陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊の衛生担当のトップに話すんですね。何とか工面してくれと。

それで全国から集めてですね、ダイヤモンドプリンセス号とか、のちの自衛隊大規模接種センターでも東京で1万人、大阪で5000人、毎日接種しましたけども、これも医官と看護官を投入して実現できたものです。

自衛隊東京大規模接種センターの看板

その間に立ったのが私でした。でも、面白かったです。

官邸にも毎日のように行きましたし、国会でも何度も吊るし上げというかそういうのもありました。

マスコミからも結構叩かれたりとか、それでもやっぱり面白い仕事でしたね。

産業医大初代学長の言葉に支えられた

そういう叩かれたりとか、責められたりした時っていうのは、どういう思いで仕事をしていたのかというと、そもそも産業医大の初代の学長が、「感謝されない医者を目指せと。臨床医は感謝されるが、予防する医者は感謝されないと。そういう医者になれ」と言われたので、ずっとそれをやり抜いたというか、そういう思いですね。

やっぱり学長の言葉、「感謝されない医師」というのが心の拠り所になりましたね。

この34年、臨床になるとか研究者になるとかいう道もあったんでしょうけど、そうじゃなくて、医系技官を選んで良かったと思っています。

生まれ変わってもまた行きたいですね(笑)。

今度はこんなことをやりたいなというのがあるかと言えば、やりたいことをやるというよりも、前に立ちはだかる課題を解決するということばかりだったので、今度生まれ変わったら、こういうことをやりたいなというのを計画を立ててやってみたいという気もします。

病気とか、そういうものっていうのは、医学、医療は進歩しますけど、また登場するんですよね。

そういう中で、やっぱり予防する、どうしたらかからないで済むかということをやっていくしかないということです。

新興感染症という新たに出てくるのがありますし、薬ができても、またそれを上回る耐性菌というのが出てきて、いたちごっこですから、終わりのない戦いですけれども、頑張るしかないですよね。

宮崎でやりたいこと

今は宮崎に帰って、これからこんな風にやっていきたいなっていうことがあります。

宮崎県は医師少数県でありますし、お医者さんをたくさん養成していきたいなということです。

その中でごく一部でもいいですが、ぜひ衛生行政といいますか、医系技官にもなって欲しい。

厚労省でもいいですし、宮崎県庁でもいいです。

もしくは世界の、例えばWHOだとか、そういったところで活躍してもいいです。

予防をするお医者さん、特に行政をするお医者さんを養成したいと思いますね。

宮崎県地域枠の医学生

ここまで読んでいただいて、どうもありがとうございました。

ご参考になれば幸いです。

今後も、ハベレオ通信で紹介していきたいと思います。

2025年5月  防衛省で

本名 
椎葉 茂樹

履歴 
1963年2月22日 宮崎県椎葉村生

椎葉小、椎葉中を経て宮崎県立宮崎西高校理数科卒業後、産業医大学に入学。

1988年 厚生省入省。医系技官として厚生労働省のほか青森県、富山県、環境省、防衛省に勤務

2022年 厚生労働省関東信越厚生局長で退職

2023年 宮崎県福祉保健部延岡保健所長兼高千穂保健所長

2024年 同高鍋保健所長兼衛生技監

2026年 同中央保健所長兼衛生技監(現職)


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