本能寺の変1582 【重史170】 『信長公記』 251215 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史170】 『信長公記』 251215
はじめに ←目次
←【重要史料】 【全】 【重史一覧】
【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
【粛清 佐久間信盛】 【足蹴事件】
【5月26日】 【5月27日】 【5月28日】 【5月29日】 ←
→重要 ◎目次
→重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次
→テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次
→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 【重史146】
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 251215
【重史170】 251215
①三月十一日、武田四郎父子、簾中、一門、
②こがつこ(駒飼)の山中へ引籠らるゝの由、
③三月十一日、巳の刻、各、相伴、討死なり。
④四郎父子の頸、滝川左近かたより、三位中将信忠卿へ、
⑤関可平次・桑原助六両人にもたせ、信長公へ御進上候。
『信長公記』
天正十年1582、三月十一日。 158200311
勝頼は、田野に追い込まれた。
現 山梨県甲州市大和町田野。
三月十一日、武田四郎父子、簾中(れんちゅう)、一門、
こがつこ(駒飼*)の山中へ引籠らるゝの由、
滝川左近、承り、
嶮難(けんなん)節所の山中へ分け入り、相尋ねられ候ところに、
田子と云ふ所、平屋敷に、暫時、柵を付け、居陣候。
*駒飼 同大和町日影付近
滝川一益の軍勢が、勝頼を取り囲んだ。
「最早、これまで」
勝頼は、逃げ場を失った。
則ち、先陣、滝川儀大夫・篠岡平右衛門に下知を申しつけ、
取り巻き候ところ、
滅亡の時、至る。
最期の様子である。
(勝頼一同は)遁れがたく存知られ、
誠に、花を折りたる如く、さもうつくしき歴々の上﨟、子供、
一々に、引き寄せ々々々々、四十余人さし殺し、
其の外(残った者たち)、ちりぢりに罷りなり、切りて出で、討死候。
土屋昌恒の奮戦。
武田四郎勝頼若衆、土屋右衛門尉、
弓を取りて、さしつめ引きつめ、散々に矢数射尽し、
能き武者余多射倒し、追腹仕り、高名、比類なき働きなり。
武田信勝、十六歳。 【人物】
勝頼の嫡男。
永禄十年1567の生れ。
母は、信長の養女(遠山氏の娘)。
武田太郎、齢(よわい)は十六歳、
さすが、歴々の事なれば、
容顔美麗、膚は白雪の如く、うつくしき事、余仁に勝(すぐ)れ、
見る人、あつと感じつゝ、心を懸けぬはなかりけり。
会者定離(えしゃじょうり)*のかなしさは、
老いたるを跡に残し、若きが先立つ世の習ひ、
朝顔の夕べをまたぬ、唯、蜉蝣(ぶゆう=カゲロウ)の化(あだ)なる
命なり。
是れ又、家の名を惜しみ、
おとなしくも(一人前の武士として、勇敢にも)、切つてまはり、
手前の高名、名誉なり。
*会者定離 出会った者には、必ず別れの時が来る=無常観。
勝頼父子、生害。
斯くして、甲斐の武田は消滅した。
歴々討死相伴(しょうばん)の衆、
武田四郎勝頼・武田太郎信勝、
長坂釣竿・秋山紀伊守・小原下総守・小原丹後守・
跡部尾張守・同息・安部加賀守・土屋右衛門尉、
りんがく長老(大竜寺鱗岳)、中にも、比類なき働きなり。
以上、四十一人侍分、五十人上﨟達女の分。
三月十一日、巳の刻(10時頃)、各(おおおの)相伴、討死なり。
「勝頼父子の首」
滝川一益の手柄である。
一益は、その首を信忠へ。
四郎父子の頸、
滝川左近かたより、
三位中将信忠卿へ、御目に懸けられ候のところに、
信忠から、信長へ。
関可平次・桑原助六両人にもたせ、
信長公へ、御進上候。
(『信長公記』)
→関連 【重史018】 ◎第115話
我ながら驚き入る計りに候「武家事紀」
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582 目次
⇒ 次へつづく
