本能寺の変1582 【四国】 十 0521 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【四国問題】天正十年1582 5月21日
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 【重史146】
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
天正十年1582
5月21日 (十日前)
1/2 【重史230】 公 天正10 158200521
家康、上洛 (安土→京へ) 。
「家康公・穴山梅雪、奈良・堺御見物の事」
①五月廿一日、家康公御上洛。
②京都・大坂・奈良・堺、御心静かに御見物なされ尤もの旨、
③案内人は、長谷川秀一。
④織田七兵衛・惟住五郎左衛門は、大坂にて、家康公の御振舞
『信長公記』
この時、信忠が、家康とともに上洛している。 【重史231】
①信長の長男(信忠)が都に到着し、
②彼とともに・・・三河の国主(徳川)家康・・・殿が来た。
『日本史』
信忠は、中国出陣を控えていた。 【重史232】
「勝頼の首」
信忠は、先の武田攻めで、大きな手柄を上げていた。 【重史170】
中国出陣は、「天下布武」の総仕上げとなる大戦(いくさ)。
ならば、その前に・・・・・。
「今一度」
そう、思っていたのだろう。
①世子は、再び、全兵力を率ゐて日本の端まで行き、
②諸国を征服して、彼とその父とに帰服せしむるつもりである
「イエズス会日本年報」
2/2 【重史042】 ✓ 天正10 158200521
元親は、信長の命を受け入れた。
①尚々、頼辰へ、残らず申し達し候上は、
②今度、御請け、兎角、今に到り、延引候段、
③▢御朱印に応じ、此の如き次第を以って、
④不慮、成し下し候はん事、了簡に及ばず候、
⑤海部・大西*両城の儀は、相、抱え候はて叶わず候、
⑥是れは、阿・讃競望のためには、一向にあらず候、
⑦東州、平均に属し奉り、御馬を納められ、
⑧何事も何事も、頼辰、仰せ談じらるべく候、
「石谷家文書」
石谷頼辰は、土佐にいた。
「武田滅亡」
結局、これが、決め手になった。
恐るべし、「武田効果」。
で、ある。
だが、残念ながら、遅すぎた。
頼辰が、直ぐに、帰路についたとしても、到着するのは、一ヶ月後。
すなわち、六月二十日前後。
「本能寺の変」の変は、六月二日。
結果、頼辰は、間に合わず。
・・・・・。
元親の決断が、遅すぎた、ということ。
土佐は、僻遠の彼方。
不運としか、言いようがない。
その意味では、
このことが、光秀を極限へと追い込み、事件を誘発する一因となった、
とも言えよう。
残念である。
⇒ 次へつづく
