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171.【小説】カタリナ坂で会いましょう-A面|第一話「ホワイト・サンデー」

【作品全体あらすじ】


『カタリナ坂で会いましょう』は、A面(表)とB面(裏)で構成される一つの小説です。

坂の上には光がある──そう信じていた者たちと、そこまで登れなかった者たち。

「A面」は、春から始まる再出発の季節。夢と喪失、出会いと別れが、坂の上で交差する。

「B面」は、秋から冬、そして春へ。坂のふもとに生きる者たちが、静かに明日を選んでいく8日間。

登った者も、登れなかった者も。

そのどちらにも、確かに光は差していた。

坂道という“地形そのもの”が語り手となり、終わりでも始まりでもない日々の中に、希望の光を描き出す──

誰の人生にも、“ふもとから始まる”再起がある。優しさと余白に満ちた街の記憶が、静かに心を照らす──

映像化にも適した、詩情と余韻に満ちた連作ヒューマンドラマ。


『カタリナ坂で会いましょう - A面』

あらすじ:

坂の上には、少しだけ特別な風が吹いていた。

御影坂上十番通り商店街──通称「カタリナ坂」。季節と風と人が交差するこの坂道を舞台に、曜日ごとに8つの物語が展開される都市型群像劇。

元編集者の女性、質屋を継いだ男、花を束ねる青年、音楽と記憶に向き合う若者、名もなき演奏者、孤独なバーテンダー……

誰もが人生の“ほつれ”を抱えながら、この坂でささやかにすれ違い、ときに見えない形で繋がっていく。

語られない感情を「音」に、戻れない日々を「香り」に、残せない言葉を「光」に託しながら──

彼らはそれぞれの時間を、もう一度、歩き始める。


第一話「ホワイト・サンデー」


正式には「御影坂十番通り商店街」と言うらしい。 けれど、この坂をそう呼ぶ人を、私は一度も見たことがない。

坂道の入り口にある黒い看板には、金色の丸文字で「カタリナ坂」。 いつの頃からか、そう呼ばれるようになったらしい。

地元の人が言うには、もともとは「カラリナ坂」だったとか。 カラフルな店が並び、どこか音楽が流れているような通りだから。 でも、訛りやすくて言いにくい。誰かが“カタリナ”と言い間違え、 気づけばそれが通りの名前になった。

Chat Noir(シャ・ノワール)のマスターは言う。 「言葉なんて、風と一緒で、音のいいほうに流れるんですよ。」

そんなカタリナ坂の入口に、私は立っていた。
三月の終わり、白いシャツの袖が少しだけ風に揺れている。


前職はファッション系の編集者だった。白いシャツなんて着ようものなら、午前中で台無しになる。 だけど今日からは、そういうルールからは解放された。

服装自由。風も自由。名前すら、自由に変わる通りに引っ越してきた。

大きなスーツケースの上に、買い足したラグマットが縛りつけられている。 近所のホームセンターで買ったばかりの、くすんだ生成り色。 あとは必要最小限の荷物と、新しい鍵と、白いシャツ一枚。

坂の途中に、小さな花屋がある。
木製のラックに並べられたポット苗に、水が打たれている。

チューリップと、ムスカリと、ラナンキュラス。 どれも春を連れてきたような色をしていた。

その隣には、黒猫のロゴマークが描かれた古いカフェがある。 ガラス扉には「OPEN」の札。 中から珈琲とタバコの、混じったような香りが流れてきた。

そのとき、風が吹いて、足元にチラシがふわりと舞い落ちた。

ようこそ、カタリナ坂へ。
Chat Noirでは、引越し祝いにコーヒーを一杯差し上げています。
今日からのあなたに、あたたかな一杯を。

思わず笑った。
そんなピンポイントな販促があるだろうか。 けれど、今日の私にはちょうどいい。

白シャツの裾を整えて、私はカフェの扉を押した。


カフェの中は、昼前ということもあり空いていた。

入り口近くのテーブル席に腰掛けると、 奥のカウンターで新聞を読む男性がひとり、軽くこちらに目を上げた。

黒縁の眼鏡、白髪まじりの短髪、黒いシャツ。店内の内装と、カウンターにいるその男の佇まいが妙に馴染んでいた。

「ご新規さんですか?」

カウンターから声がした。

思ったより若い。
四十代前半くらいだろうか。

珈琲を淹れながら、ちらりとこちらを見ている。 目元は柔らかく、けれど声にはあまり抑揚がない。

「……そうです。引っ越してきたばかりで。」

「でしょうね。スーツケース、外に見えました。」

「チラシ、拾ったので……」

「はい、あれ、ちょっとした歓迎です。」

「ありがとうございます。」

言葉が交わされているのに、不思議と静かだった。この店には、喋らなくてもいい時間が流れている気がした。

数分後、ミルクピッチャーと一緒にカップが置かれる。 深く濃い色の液面が、わずかに揺れていた。

「ブラックが苦手なら、言ってくださいね。」

「いえ、好きです。」

口に含むと、酸味と苦味のバランスが良かった。 香りが鼻を抜ける感覚と、余韻の深さ。

東京で飲んでいた有名チェーンの味とはまるで違った。

「これ、何の豆ですか?」

「エチオピア。中深煎り。少しだけブレンドしています。」

「……とてもおいしいです」

「それは良かった」

それきり、マスターはまた静かになった。 私はカップを両手で包みながら、店内を眺めた。

カウンターの端に飾られた写真立て。 猫の後ろ姿、どこかの路地、夜の窓辺。どれも“カタリナ坂”のようで、“どこでもない”ようでもある。


扉が開き、軽いベルの音が鳴った。

入ってきたのは女性二人組。

一人は赤いリップが印象的で、ヒールの音を響かせて歩く。 もう一人は短髪で、無造作なカーディガンを羽織っていた。

「おつかれ、マスター。今日は酸味のやつある?」

「グアテマラなら。」

「それにして。今日も暑いよね。」

「まだ三月ですよ。」

「はー、春かー。あっという間ね、ほんと。」

赤リップの彼女は、私に軽く会釈をしてからカウンターに座った。

私はまた、静かにコーヒーに戻る。 カタリナ坂には、少しずつ色が増えていく。


カップの底に残った珈琲が、ほんの少しだけ温かった。 春の光が差し込む窓辺で、私は小さく息を吐いた。

そのとき、カウンターの上に黒い影がふわりと現れた。

黒猫だった。
スルリとどこからか現れて、音もなく座っている。

「……あなたが、“シャ・ノワール”さん?」

猫は一度だけ「ニャ」と鳴いた。その声が、妙にタイミングよくて、私は思わず笑ってしまった。

「あ、それはお店の名前か。じゃあ、あなたは、きっと“ノワール”ね。」

猫は返事をするでもなく、ただこちらをじっと見つめている。目の奥が、どこか知っているような、そんな色をしていた。

「私は、城野アオイ。今日からこの坂の住人です。よろしくね、ノワール。」


店を出ると、風がまた少し強くなっていた。空はいくぶん白っぽい。だけど、どこか柔らかい光を孕んでいる。

坂をゆっくりと登っていく。

通りには花屋のチューリップが揺れ、どこかで黄緑色のカーテンが揺れていた。

通りの向こう、赤リップの彼女が誰かに手を振っている。台車を引く若い男の子が、それに気づき笑いながら駆けていく。

それぞれの“色”が、まだ名前も知らないまま、 すこしずつ私の視界に入ってくる。

この坂には、少しだけ時間の流れ方が違う気がする。そう、言葉も、風も、人の距離も。

坂の中腹で足を止め、ふと空を見上げた。 真っ白だった空が、すこしだけ、色づいて見えた。


カタリナ坂で会いましょう A面


カタリナ坂で会いましょう B面


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