見出し画像

フェントンと 『英国歩兵練法』 (改訂版)

【日本のラッパの起源と進化】 - その 7 - 2 

 日本近代軍制の黎明期における西洋軍楽の導入は、決してフランス式への一本道ではありませんでした。そこには、フェントンが体現し、海軍が明治18年(1885年)頃まで保持した「英国式」という、もう一つの巨大な体系が並走していました。
 『英国歩兵練法』に記されたラッパ号音は、単なる紙の上の知識ではありませんでした。それは海軍において実働する「音の規律」として息づき、組織秩序を可聴化する役割を担っていました。本稿では、フェントンが提示した思想が、いかに海軍という組織の性格と合致し、後の陸海軍共通譜制定に至るまで日本軍の一翼を支え続けたのかを再検討します。


 フェントンが日本、とりわけ薩摩藩にもたらしたものの本質は、単なる西洋音楽の導入に留まるものではありませんでした。それは、当時のイギリス陸軍の公式教本である『FIELD EXERCISE 1861』に象徴される、「軍事思想」そのものだったと言えます。彼は、ヴィクトリア女王の命により厳格に定められたイギリス軍制という枠組みから、一歩も踏み出すことなく指導にあたりました。フェントンは自ら新しいものを生み出す改革者ではなく、イギリス軍の思想をありのままに映し出す「鏡」のような存在でした。いわば彼は、常に「規定の内側」を歩み続けた人物だったのです。
 薩摩藩の志士たちが彼から学び取ったのは、単なるメロディや演奏の技術ではありません。それは、公式な教範に裏打ちされた、近代軍人としての「規律ある立ち居振る舞い」そのものでした。日本はフェントンという存在を通じて、初めて「教範によって厳密に統制・管理される軍事文化」という概念を知ることになったのです。
 そして皮肉なことに、フェントンがこの規定に対して極めて忠実であったからこそ、当時の日本側は「英国式とはいかなるものか」を正確に理解することができました。この思想的な明確さがあったからこそ、後に日本が自国の発展段階に合わせて「フランス式」を選択しようとした際、フェントンは揺るぎない比較基準(ベンチマーク)としての役割を果たすことになったのです。

第1章 フェントン来日前夜の英国軍楽世界

西洋の音、その背後にある思想

 幕末の日本に「西洋の音」が流入した際、そこにもたらされたのは単なる楽譜の集積ではありませんでした。そこには、音をどのように定義し、いかなる規範のもとで運用するかという、明確かつ強固な「思想」が存在していたのです。
 こうした西洋軍楽の思想を自ら体現し、日本へと伝播させた人物の一人が、イギリス陸軍の軍楽人ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton, 1828–1890)でした。彼がもたらしたものは、単なる旋律の美しさではなく、音楽を「軍隊という組織を律する制度」として捉える厳格な合理性そのものでした。

規律と秩序の装置としての軍楽

 フェントンは、19世紀半ばの英国陸軍制度において育成された、生粋きっすいの職業軍楽人でした。彼が身を置いていた英国陸軍の軍楽世界とは、単に演奏技術を研鑽けんさんする場ではありません。それは軍の規律・秩序・統制を維持するための「制度」の一部として、明確に位置づけられていたのです。
 当時の英国軍制において、軍楽は兵士の感情を鼓舞するための情緒的な表現手段ではありませんでした。むしろ、部隊行動を円滑に支え、軍の厳格な秩序を音として「可聴化」――すなわち、聴覚を通じて組織の統制を認識させる――ための、実用的な装置としての役割を担っていたのです。

教範『FIELD EXERCISE 1861』が示す抑制の美学

 こうした英国軍楽の思想を象徴的に示しているのが、1861年に改訂された英国陸軍の官定教範かんていきょうはん『FIELD EXERCISE AND EVOLUTIONS OF INFANTRY』です。本書は「女王陛下の命(Her Majesty's Command)」により制定された公的な国家文書であり、歩兵の隊形運動や号令、野外行動の基準を微細に規定した公式の教練書でした。
 特筆すべきは、同書における信号ラッパ(ビューグル)の位置づけです。第5部第12節において、ラッパはあくまで肉声の号令を補完する「補助的かつ限定的な伝達手段」と定義され、その使用には厳格な制約が課されています。ここからは、英国陸軍が音による指揮命令をいかに慎重、かつ合理的に扱っていたかが読み取れます。
 具体的には、同書には以下のような理念が明確に示されています。

  • 使用の最小化 ラッパ号音は「可能な限り少なく、かつ単純であるべき(as simple and few as possible)」とされています。これは、不用意な吹奏が命令の誤解を招くだけでなく、敵軍に自部隊の意図を察知される「脆弱性ぜいじゃくせい」に繋がるという危機感の表れでもあります。

  • 指揮の単一性 教練中に複数のラッパが鳴り響くことは、指揮系統の混乱を招くとして忌避きひされました。そのため、原則として指揮官(Commanding Officer)が発する単一の信号のみで十分であると規定されています。

  • 運動命令の即時無効化 「止まれ(Halt)」の号音が吹奏された瞬間、それまでに発せられたすべての運動命令が無効化されるという規定も存在します。これは、戦場における「静止」と「統制」を何よりも優先する、英国軍制の徹底した管理思想を象徴するものと言えるでしょう。

第2章 フェントンと日本─「英国式」は何をもたらしたか

駐留軍楽長としてのフェントン:招聘から偶然の接触へ

 ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton, 1828–1890)は、日本近代軍楽史において極めて重要な役割を果たした人物と位置づけられていますが、その来日の経緯については正確な理解が必要です。彼は、薩摩藩や明治政府が正式な要請に基づき、本国から招聘した「お雇い外国人」のような存在ではありませんでした。
 1868年(明治元年)、フェントンはイギリス陸軍第10連隊第1大隊の軍楽長(バンドマスター)として、横浜の外国人居留地に駐留していました。彼はあくまで「在日駐留軍の一員」として日本に滞在しており、数ある英国軍楽人の一人にすぎなかったのです。薩摩藩がフェントンと接点を持つに至ったのは、当時の横浜が置かれた地政学的条件と、軍制近代化を急ぐという実務的状況が重なり合った結果であったと考えられます。

薩摩藩との実務的接触

 幕末から維新期にかけての薩摩藩は、軍制近代化を加速度的に進める過程で、西洋式軍楽に対しても強い関心を寄せていました。しかし、当時はそのための教育制度も専門人材も国内には皆無に等しい状況でした。そのため、国家間の正式な軍事顧問契約が締結される以前の段階においては、横浜の外国人居留地に滞在する軍人や技術者に対し、個別に協力を仰ぐという極めて実務的な手法が採られていました。
 フェントンへの軍楽指導の依頼も、こうした切迫した情勢下における現実的な対応の一環として位置づけることができます。組織的な制度移植が進む前段階において、目の前に存在する「生きた規範」としてのフェントンを最大限に活用しようとした、薩摩藩の功利的な判断がそこには読み取れます。

「英国式」が内包する機能美と制約

 フェントンが提示した「英国式軍楽」の本質は、華やかな演奏文化の誇示にあるのではなく、規律と統制を支えるための実務的な「音の運用体系」にありました。彼が拠(よ)って立っていた英国陸軍の官定教範『FIELD EXERCISE AND EVOLUTIONS OF INFANTRY(1861)』においては、音による命令伝達は厳格に制御されるべき対象として規定されていたのです。
その思想は、具体的に以下の二点に集約されます。

  • 信号の補助的位置づけ ラッパ信号は、あくまで肉声による号令を補完する必要最小限の手段に留められるべきだとされました。不用意な吹奏は命令の誤認を招くだけでなく、敵軍に対して自部隊の意図を露呈させる危うさを孕(はら)んでいるため、きわめて慎重に運用されていたのです。

  • 指揮の単一性 複数の信号音が交錯することは組織の混乱に直結すると見なされていました。音はあくまで指揮官(Commanding Officer)の意思を補助・補強するための限定的な記号として位置づけられ、その独占的な運用が求められたのです。

 フェントンにとっての軍楽とは、兵士の感情を昂揚(こうよう)させるための情緒的装置である以前に、部隊の秩序を「可聴化」し、組織的な統制を担保するための「機能的要素」であったと言えるでしょう。

日本の制度構築との摩擦と選択

 このような英国式の軍楽観は、日本側に「制度としての音楽」という全く新たな視座をもたらしました。音楽とは単なる娯楽や儀礼の類ではなく、近代軍事組織という巨大な機構において、明確な役割と規範を担う「歯車」であるという認識は、フェントンとの接触を通じて初めて具体化されたと考えられます。
 一方で、英国式が標榜ひょうぼうする高度な「抑制された機能主義」は、必ずしも当時の日本の切実な要請と合致していたわけではありませんでした。当時の日本は、未だ組織化の途上にあり、戦場という極限の混乱下で部隊を即応的、かつ直感的に駆動させるための具体的な「すべ」を渇望していたからです。そのため、英国式の持つ洗練された理論体系や慎重な運用は、当時の未熟な軍制下においては、時として「抽象的で扱いにくい理想論」として受け止められた可能性があります。
 明治初期、日本が最終的にフランス式、あるいはドイツ式へと軍制の重心を移していった背景には、単なる政治的選択だけでなく、こうした「英国式軍楽観」が提示した高度すぎる理想と、日本の軍事的成熟度との間に生じた、相対的な乖離かいりも影響していたと推察されます。

比較対象としてのフェントン

 フェントンが日本にもたらしたものは、即座に導入・定着させることが可能な「完成されたパッケージ」ではありませんでした。むしろそれは、横浜という「接触地帯(コンタクト・ゾーン)」において提示された、高度に体系化された一つの規範であり、有力な選択肢であったといえます。
 当時の日本側は、フェントンという存在を介して英国式の厳格な軍楽観に触れ、それを一つの明確な「基準」として措定さていすることができました。その基準と自国の実情とを照らし合わせ、比較・検討を繰り返すことで、日本は自国に真に適合する軍楽制度を模索するための確固たる出発点を得たと言えるでしょう。

教範が示す「抑制の美学」と艦隊秩序

 明治初年に翻訳された『英国尾栓銃練兵新式』の第十二箇條には、「輕歩兵ノ運動ハ總テ號令而巳(のみ)ニテ定ムヘシ」とあります。この「肉声号令の絶対優先」と、号音を「成丈(なるたけ)少ナク且ツ短ク」とする「音の抑制思想」は、広大な戦場で散開する陸軍よりも、狭い艦内という限定的な空間で統制を保つ必要がある海軍の環境に、極めて高い親和性を持っていました。
 フェントンという職業軍楽人が体現した「規定の内側を歩む規律」は、海軍において約20年にわたり実務的なラッパ譜として定着しました。

第3章 フェントンとラッパ─抑制の思想と実用の希求

軍楽制度の専門性と海軍への影響──バンドマスターとしてのフェントン

 フェントンとラッパ(信号喇叭)との関係を考察する際、まず確認しておくべき重要な前提があります。それは、ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton, 1828–1890)が、英国陸軍においてバンドマスター(軍楽長)として専門的なキャリアを歩んだ人物であったという点です。
 彼の職能の本質は、吹奏楽編成による軍楽隊の統率・訓練、そして高度な演奏指導にありました。これに対し、野戦における信号ラッパの体系的運用や伝習は、歩兵部隊に直属するラッパ長(Bugle Major など)が担う職掌です。すなわち、芸術的・儀礼的合奏を司る「軍楽長」と、実戦的な信号伝達を担当する「喇叭長」では、英国軍の制度上、その役割は明確に峻別しゅんべつされていました。
 この制度的前提を踏まえるならば、フェントンを日本にラッパ信号を「教えた人物」と位置づける理解は、必ずしも正確とは言えません。むしろ彼は、個々の奏法や信号技術を伝授する存在というより、英国陸軍における軍楽制度そのものを体現し、それを組織的・思想的枠組みとして日本側に提示した人物であったと捉えるべきです。
 フェントンがもたらしたこの「制度としての軍楽」は、その後の日本軍において一様に受容されたわけではありません。明治初期、陸軍が戦場での即効性を重視し、フランス式の動的な軍事技術へと傾斜していく一方で、海軍はフェントンが示した「思想としての英国式軍楽」を、組織を律する静かな秩序として保持し続けました。
 小山作之助が『国歌君が代の由来』において述べた「海軍は英国を用ゐたり」という指摘は、その歴史的選択を端的に物語っています。フェントンの専門性が蒔いた種子は、陸軍ではなく、海軍という制度的土壌においてこそ、確かに根を下ろし、実を結んでいったのです。

英国式教範に流れる「音の抑制」という思想

 フェントンが属していた英国軍の制度において、なぜラッパが「主役」に据えられなかったのか。この理由を解明することは、日本におけるラッパ号音受容の在り方を考察する上で、極めて重要な鍵となります。その思想的背景は、英国陸軍の官定教範『FIELD EXERCISE AND EVOLUTIONS OF INFANTRY(1861)』に、驚くほど明確に刻まれています。
 同教範において、信号ラッパはあくまで肉声による号令を補完するための「補助的手段」と定義されていました。第5部第12節では、以下のような理念が徹底して強調されています。

  • 「単純さ」と「最小限の使用」の徹底 ラッパ信号は「可能な限り少なく、かつ単純であるべき(as few and as simple as possible)」と規定され、号音が戦場に氾濫することは厳しく戒められていました。

  • 情報的脆弱性(ぜいじゃくせい)の回避 音による命令は、伝達の過程で誤解を招きやすいだけでなく、敵軍に自部隊の意図を察知される危険性を孕んでいます。不用意な吹奏は軍事的な弱点になり得ると、教範は明記しているのです。

  • 指揮の混乱防止と統制 複数のラッパが鳴り交わる状況は、部隊の混乱を招く「ノイズ」として忌避されました。そのため、原則として指揮官の信号のみで十分であるとされ、さらには予備隊には信号を適用しないなど、徹底した「音の統制」が制度化されていました。

 このように、英国式軍制における「音」とは、決して前面に立って部隊を能動的に駆動するものではありませんでした。それはあくまで既存の秩序を乱さない範囲でのみ許容される、極めて厳格に制御された「補助装置」として位置づけられていたのです。

フェントンが体現した「思想」と、日本側の「実務的要請」

 フェントンが日本にもたらしたものの本質は、特定のラッパ譜や吹奏技術の伝授というよりも、「音は厳格に統制されるべきものである」「過剰な音は軍の情報的な脆弱性ぜいじゃくせいに直結する」という、英国軍制特有の価値観そのものであったと考えられます。
 一方で、幕末から明治初期の日本が直面していた急務は、近代的な軍制の急速な整備と、それに基づく実戦的な運用の確立でした。散兵さんぺい *1や部隊の即応的な展開を前提とする戦場の最前線においては、音によって直接的、かつ直感的に部隊を駆動させることのできる、より「実用性」に特化した信号体系が切実に求められていたのです。
 この点において、日本側が最終的に強い関心を寄せたのが、フランス式のラッパ運用でした。フランス軍の号音体系は、多種多様な号音が体系的に整理されており、散兵線の統制や戦場での臨機応変な指揮を可能にする、極めて実戦的な「命令の言語」として機能していました。
 制度の構築を急いでいた当時の日本にとって、このフランス式の圧倒的な実用性は、抑制を美徳とする英国式の思想よりも、はるかに現実的かつ魅力的な解決策として映ったに違いありません。日本はフェントンという「鏡」を通して英国式の純粋な理想を知り、その対極にあるフランス式の機能性を、自国の発展段階に応じた「必然」として選択したと言えるでしょう。

*1 本隊から離れて小規模な集団や個々人で行動する兵士(散兵)による戦闘のこと

歴史的実態としてのフェントンの位置づけ

 日本近代軍楽史において、フェントンとラッパの存在が必ずしも直結していないのは、決して偶然ではありません。そこには、制度としてラッパの「前面化」を抑制する英国式の思想と、より能動的かつ実用的な信号音を渇望した日本側の要請との間に、明確な乖離かいりがあったからです。この制度的・思想的な差異こそが、結果としてフランス式ラッパ体系の受容を加速させる決定的な背景となりました。
 フェントンは、日本にラッパ信号を直接的に「伝習」させた人物ではありませんでした。しかし彼は、横浜という文化の「接触空間(コンタクト・ゾーン)」において、西洋における音の運用には複数の体系と選択肢が存在することを、日本側に身をもって可視化した存在でした。
 フェントンを通じて示された英国式軍楽観は、日本が自国の軍楽制度をゼロから構築する際の、極めて重要な「比較対象(ベンチマーク)」となりました。その厳格な思想を基準としたからこそ、日本は自国の実状に照らし合わせた主体的な取捨選択を行うことができたのです。その意味において、フェントンが果たした役割は、単なる技術指導の枠を超え、日本の近代化における「思考の枠組み」を提示したという点で、極めて多大なものであったと言えるでしょう。

第4章 フランス式との対照──「参照」と「伝習」が分けた差異

立場の相違──駐留者の「参照」と教育者の「伝習

 フェントンとギュティグの差異は、単なる国籍や採用された軍制様式の違いに留まるものではありません。それは、彼らが日本という国家と関わった際の「立場」と「役割」における根本的な相違にありました。
 ジョン・ウィリアム・フェントンは、横浜の外国人居留地に駐留していた英国陸軍第10連隊の軍楽長として日本に存在していました。彼は日本側の自発的な働きかけによって接触が生じた存在であり、提示したのは英国軍が長年培ってきた軍楽制度や、その背後にある厳格な思想でした。それらは、当時の日本にとって即効性のある実務というよりも、将来的に参照すべき「高度な制度モデル」としての性格を強く帯びていたのです。
 これに対し、ギュティグ(Guttig)伍長は、1867年(慶応3年)に江戸幕府が正式に招聘(しょうへい)したフランス軍事顧問団の一員として来日した、明確な教育任務を帯びた実務者でした。彼の使命は、日本の軍隊という組織の内部に入り込み、即座に機能し得る技術を「移植」し、根付かせることにありました。
 この「参照される存在」としてのフェントンと、「伝習を担う教育者」としてのギュティグという立場の決定的な差が、日本側への影響力の質を分かつことになったのです。

理論としての「知識」と、身体化された「実技」

 英国式軍制は、官定教範『FIELD EXERCISE AND EVOLUTIONS OF INFANTRY(1861)』に象徴されるように、極めて高い論理性と制度的完成度を備えていました。しかし、その体系におけるラッパ運用は、あくまで音を抑制し、指揮命令の秩序を維持するための「補助的手段」に過ぎません。そこでのラッパとは、あくまで「必要な時にのみ鳴らされる音」であり、決して制度の主役ではありませんでした。
 こうした思想は、軍制全体が成熟し、指揮命令系統が盤石に整備された組織においてこそ真価を発揮するものです。幕末期の日本にとって、それは多分に「知的な体系(知識)」として理解される、抽象度の高い性格を帯びていました。
 対照的に、ギュティグが教授したフランス式の号音体系は、徹底して「現場志向」でした。彼が伝え、後に『喇叭符号 全』として結実する体系は、文字通り戦場や練兵場において「実演されること」を大前提としたものでした。
 そこでは、譜面を論理的に読解すること以上に、実際に吹き、聞き、その音に対して「身体が即応すること」が重視されました。この「吹奏し、聴取し、直ちに行動する」という実技中心の体系は、一刻も早い制度整備を迫られていた日本にとって、極めて即効性の高い解決策となったのです。

軍制導入段階の差と「即効性」の選択

 日本が置かれていた当時の歴史的段階も、この選択を大きく左右しました。幕末から明治初期にかけての日本にとって、最優先すべき課題は、洗練された制度を完璧に運用することではなく、まずは「一斉に、かつ組織的に動く軍隊」を速やかに成立させることでした。
 英国式の抑制的で高度に組織化された軍事思想は、軍制が十分に成熟し、個々の兵士や指揮官に深い理解が浸透している国家においてこそ真価を発揮する、いわば「完成形」のモデルでした。しかし、組織構築の途上にあった当時の日本にとって、それはあまりに高邁こうまいで、適用の難しい理想でもあったのです。
 それに対して、フランス式のラッパ号音体系は、制度が未整備な段階であっても、音型そのものの持つ強制力によって部隊の行動を直接的に統制できる、極めて実用的な「ツール」として機能しました。
 日本がフランス式ラッパを積極的に受容した背景には、この「軍制導入の段階」という現実と、「現場が求める即効性」との明確な合致があったと考えられます。フェントンが示した英国式の「静の思想」を一つの到達点として仰ぎつつも、日本は生存と組織化のために、ギュティグがもたらしたフランス式の「動の技術」を選び取らざるを得なかった――その選択の軌跡こそが、日本の近代軍制の出発点となったのです。

「音」として刻まれた身体的記憶

 最終的に決定的な要因となったのは、フランス式ラッパが単なる情報としてではなく、生きた「音」として日本の兵士の身体に刻み込まれた点にありました。ギュティグの直接指導によって伝えられた号音は、日々の過酷な訓練を通じて兵士の動作と不可分に結びつき、反射的な行動を呼び起こす「身体的記憶」として定着していったのです。
 フェントンが示した英国式の体系は、赤松小三郎らによる翻訳作業を経て、主に知識層の間で「思想」や「比較対象」として理論的に理解されました。しかし、実際に練兵場や戦場で空気を震わせ、兵士たちの耳と身体を直接的に支配したのは、フランス式が奏でる具体的な旋律でした。
 論理として理解された英国式と、身体に染み付いたフランス式。この「音としての定着」の差こそが、ギュティグを日本のラッパ史において決定的な存在たらしめ、その後の日本軍における号音体系の盤石な基盤を形作った最大の理由であったと言えるでしょう。

フェントンとギュティグの発展的統合

 長らく「陸・仏/海・英」と二分されていた日本の号音体系は、明治18年(1885年)8月の「信号喇叭制定」によって、ようやく国家規格として統合されました。

  • 陸軍の即効性(フランス式):ギュティグが身体化した、戦場を動かす技術

  • 海軍の規律(英国式):フェントンが可視化した、組織を律する思想

 エッケルトらが関与したこの統合は、一方が他方を駆逐した結果ではない。約20年に及ぶ併存と試行錯誤を経て、両者の長所を取り込み、日本独自の号音体系へと昇華させた到達点でした。

第5章 フェントンの歴史的位置づけ

「決定的な存在」から「最初に可視化された存在」へ

 ジョン・ウィリアム・フェントンが日本の軍楽史において占める真の位置は、彼が何らかの制度を直接的に決定づけた、という点にのみ求めるべきではありません。むしろ注目すべきは、彼が「最初に可視化された西洋軍楽の体現者」であったという事実そのものです。
 幕末から維新期にかけての混迷する日本において、フェントンは、高度に体系化された西洋軍楽の全体像を、実在する職業軍楽人(プロフェッショナル)として初めて具体的に提示しました。当時の日本にとって、西洋軍楽は未だ実体のつかめない抽象的な概念に過ぎませんでした。その未知の制度文化を、生身の人間として体現し、日本人が直接触れることのできる「実体的な窓口」となったことこそが、彼の歴史的な功績です。
 彼を通じて示された英国式の「音の運用」や「統制の思想」は、当時の日本の切迫した状況下では、直接的な採用には至りませんでした。しかし、その洗練された規範がまず眼前に提示されたからこそ、日本は自国の置かれた未熟な状況を客観視することができたのです。
 いわば、フェントンという「高き基準」との出会いがあったからこそ、日本はそれを比較対象(ベンチマーク)として、自国の発展段階にふさわしい「実用的な選択」へと主体的に踏み出すことが可能になったと言えるでしょう。

「最初性」がはらむ限界と立ち位置

 もっとも、その「最初性」は、当時の歴史的状況に由来する明確な限界を伴っていました。フェントンは、明治政府が軍制整備を国家の命運を委ねるために、本国から正式に招聘しょうへいした教育顧問ではありませんでした。彼はあくまで、横浜に駐留する英国陸軍の軍楽長という本来の職責を果たす中で、日本側と偶発的な接点を持った人物でした。
 彼が日本側に提示したのは、英国軍制において長い時間をかけて成熟・完成された軍楽思想と制度の「理想像」でした。それは、当時の日本社会の内部に即座に根付かせ、移植可能な「実技体系」というよりも、むしろ日本がいつか到達すべき「完成形」、あるいは仰ぎ見るべき「到達点」としての性格を強く帯びていたと言えます。
 この「駐留軍楽長」という彼の身分上の制約と、提示された「高度すぎる制度モデル」という二つの要因が、後の日本軍による実務的な選択――すなわち、より直接的な教育任務を帯びたギュティグ(フランス式)への傾斜――を決定づける要因の一つとなったのです。

ラッパ信号におけるフェントンの関わり

 とりわけ信号ラッパの運用に関して、フェントンが具体的な号音体系や吹奏技術を日本に定着させた形跡は見当たりません。しかし、これは彼の個人的な資質や指導能力の欠如に起因するものではなく、彼が体現していた英国軍制の「思想」そのものに根ざした必然的な結果でした。
 英国陸軍の官定教範『FIELD EXERCISE 1861』において、ラッパは決して戦場の主役ではありません。その使用は厳格に抑制されるべき「補助的手段」として位置づけられていました。こうした高度な組織論に裏打ちされた「抑制の美学」は、軍制形成の初期段階にあり、部隊を能動的に動かすための直感的な信号音を渇望していた当時の日本にとって、即効性を持つ実用モデルとはなり得なかったのです。
 いわば、フェントンがもたらした「静の思想」と、当時の日本が求めた「動の技術」との間には、解消しがたい時代のズレが存在していました。この思想的・実務的なミスマッチこそが、日本のラッパ史においてフェントンの名が具体的な号音とともに語られない、「空白」の正体であったと言えるでしょう。

制度思想の「参照点」としての遺産

 一方で、フェントンが日本に残した知的な遺産が、決して皆無であったわけではありません。彼は、西洋軍楽が単なる演奏技術の集積ではなく、軍制・規律・思想と不可分に結びついた「制度文化」そのものであることを、日本に対して初めて具体的に提示しました。
 フェントンを通じて示された英国式軍楽観は、その後の日本軍がフランス式を実務として導入する際、その有用性や方向性を冷静に見極めるための、不可欠な比較基準(ベンチマーク)として機能したと考えられます。
 もしフェントンという「高潔な理想」の提示が先になければ、日本側はフランス式の持つ実用的な合理性を、これほどまでに鋭く認識し、確信を持って選び取ることはできなかったかもしれません。
 フェントンは、日本の軍楽の土壌に直接的な実技の根を張ることはありませんでした。しかし、その土壌を律するための「思想の枠組み」を最初に描き出したという点において、彼の存在は日本の近代軍楽史における揺るぎない参照点として、今なお重要な意義を放っているのです。

結び 適切な評価に向けて

 結論として、ジョン・ウィリアム・フェントンという人物は、日本の軍楽史・ラッパ史において「制度思想を最初に可視化した参照点」として位置づけるのが最も妥当でしょう。彼は、実務としての吹奏技術を直接定着させた人物ではありませんでした。しかし、フェントンという存在が介在しなければ、その後の日本における軍楽の受容と、フランス式へと至る選択の過程を正確に理解することは不可能です。
 フェントンの役割を「実技の伝習者」ではなく、あくまで「西洋の軍楽思想と制度像の提示者」として正しく定義すること。そのとき初めて、彼の歴史的評価は過大にも過小にもならず、日本近代軍楽史という巨大な潮流の中で、あるべき適切な位置に据えられることになるのです。
 日本はフェントンという「鏡」に自らの未熟さを映し出し、英国式という「完成された理想」を仰ぎ見ることで、自らが歩むべき「実用の道」を確信しました。彼の蒔いた思想の種は、技術という形ではなく、近代的な組織を律する「規律の知」として、日本の軍隊文化の深層に静かに、しかし確実に根を下ろしたと言えるでしょう。

総結論:日本は「様式」ではなく「段階」を選んだ

二者択一を超えた歴史的選択

 本稿を通じて明らかになったのは、日本が近代軍楽とラッパ信号を導入する過程において、単なる「英国式か、フランス式か」という好みの二者択一を行ったわけではないという事実です。日本が実際に行ったのは、二つの様式がそれぞれ持つ役割と性格を冷静に見極め、自国が置かれた歴史的段階に応じて、きわめて戦略的に取捨選択することでした。

英国式が示した「完成された理想」

 フェントンが体現した英国式軍楽は、成熟した軍制の存在を前提とする、高度に体系化された制度文化でした。そこでは、音は秩序を乱さぬよう厳格に統制され、ラッパ信号はあくまで指揮命令を補助する限定的な手段と位置づけられていました。
 この思想は、軍楽を単なる音楽ではなく「規律の可聴化(音による秩序の表現)」として捉える点において、きわめて洗練された軍事思想を提示していました。

フランス式が提供した「草創期の即効性」

一方で、日本が当時直面していたのは、軍制の「完成」ではなく、その「草創そうそう」でした。統一された指揮体系も、十分に訓練された常備軍も持たない状況下で、まず必要とされたのは、部隊を「一斉に動かす」「即座に反応させる」ための、直接的かつ身体的な技術でした。
 その切実な要請に応えたのが、ギュティグらを通じて導入されたフランス式の実戦的な体系です。号音は理論としてではなく実演を通じて伝えられ、音と身体動作が密接に結びつくことで定着しました。日本はフランス式という「様式」を選んだという以上に、その発展段階において不可欠であった「即効性」を採用したのです。

思想としての英国式、技術としてのフランス式

 重要なのは、日本が英国式を「捨てた」のではない、という点です。フェントンを通じて提示された英国式軍楽観は、直接的な制度移植には至らなかったものの、軍楽とは単なる楽器演奏ではなく、軍制・規律・思想と不可分な「制度文化」であるという本質的な認識を日本にもたらしました。  この理解を基盤としていたからこそ、日本はフランス式を単なる外面的な模倣に終わらせることなく、自国の軍制構築の一環として主体的に位置づけることができたのです。
 言い換えれば、日本は英国式から「思想」を学び、フランス式から「技術」を学びました。そしてその両者を、自国の状況に応じて再構成し、独自の軍楽・号音文化を形成していったのです。

選択と学習の連続性

 フェントンが「最初に可視化された存在」であり、ギュティグが「実務として定着させた存在」であったという整理は、日本近代軍楽史の本質を的確に突いています。両者は対立項ではなく、日本が近代化の過程で経験した「選択」と「学習」の連続性を、それぞれ異なる位相いそうから体現した存在でした。

戦略的併存の20年

 日本の近代軍楽史とは、外来様式の優劣を競う物語ではありません。それは、英国式が守り続けた「完成された理想」と、フランス式が提供した「草創期の即効性」を、自国の発展段階に応じて同時に使いこなした、極めて現実的で知的な選択の歴史です。
 フェントンは、日本が近代軍楽という未知の文化を知るための「最初の窓口」であり、かつ海軍における「規律の源流」でした。彼が蒔いた思想の種は、明治18年の統合を経て、日本独自の号音体系という大きな樹木を支える、目に見えない強固な「根」となったのです。


【日本のラッパの起源と進化】シリーズ 1〜30

日本のラッパの起源と進化】 - その1
 
― フランス軍事顧問団とギュティグの役割 ―
日本のラッパの起源と進化】 - その2
 
― 二度来日したラッパ伍長ギュティグ ―
日本のラッパの起源と進化】 - その3
 
― 喇叭譜号 全 (一般信号) ―
日本のラッパの起源と進化】 - その4
 
― 喇叭譜号 全 (運動合図信号) ―
日本のラッパの起源と進化】 - その5
 ― 喇叭譜号 全 (三重奏と部隊信号) ―
日本のラッパの起源と進化】- その6
 
― 『英国歩兵練法』慶応2年の喇叭合圖 ―
日本のラッパの起源と進化】- その7
 ― 『英国歩兵練法』とフェントン ―
日本のラッパの起源と進化】- その7 - 2
 
― 『英国歩兵練法』とフェントン (改訂版) ―
日本のラッパの起源と進化】- その8
 ― 『英国尾栓銃練兵新式』と『英国銃隊練法』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その9
 
― 『旭川と佐呂間でラッパ隊を聞く』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その10
 
― 『陸海軍喇叭譜 (1885)』その1 ―
日本のラッパの起源と進化】- その11
 
― 『陸海軍喇叭譜 (1885)』その2 ―
日本のラッパの起源と進化】- その12
 ― 『陸海軍喇叭譜 (1885)』その3 ―
日本のラッパの起源と進化】- その13
 
― 『諸外国の「食事ラッパ譜」』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その14
 
― 『日本の「食事ラッパ譜」』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その15
 
― 『駆歩行進』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その16
 ― 『北海道のラッパ』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その17
 ― 『浜松まつりのラッパ』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その18
 ― 『おかえり祭りは二種類ラッパが交互に響く』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その19
 ― 『美川で最初に吹き鳴らされたラッパ譜』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その20
 ― 『音商標への登録』 ―
日本のラッパの起源と進化】- 番外編
 ― 『ビューグル』 ― 《BandLifeWorld版》
日本のラッパの起源と進化】- その21
 ― 偕行文庫の『陸海軍喇叭譜』―
日本のラッパの起源と進化】- 番外編
 ― 『ビューグル─音が伝えるもの、形が残すもの』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その22
 ― 『イタリア・トリノの消灯ラッパ』―
日本のラッパの起源と進化】- その22 改訂版
 ― 『夜空のトランペットのルーツ』―
日本のラッパの起源と進化】- その23
 ― 『朝はラッパで始まる ― 起床ラッパ二百年の歴史 』―
日本のラッパの起源と進化】- その24
 ― 『いまさらですが「らっぱ」って何ですか』―
日本のラッパの起源と進化】- その25
 ― 『消えゆくラッパの響き ― 佐呂間消防団ラッパ隊の記録』―
日本のラッパの起源と進化】- その26
 ― 『ながのってすごいぞ/御柱』―
日本のラッパの起源と進化】- その27
 ― 『ながのってすごいぞ―消防:基礎編』―
日本のラッパの起源と進化】- その28
 ― 『ながのってすごいぞ―消防:応用編』―
日本のラッパの起源と進化】- その29
 ― 『戦後ラッパ譜の成立 ― 須摩洋朔と自衛隊音楽隊の出発』―
日本のラッパの起源と進化】- その30
 ― 『現代音楽作曲家のラッパ譜 ― 黛敏郎と自衛隊儀礼音楽』―
【日本のラッパの起源と進化】- その31
 ― 『(仮)日本のラッパ文化の構造』―

いいなと思ったら応援しよう!