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『英国歩兵練法』慶応2年の喇叭合圖

【日本のラッパの起源と進化】 - その 6
『英国歩兵練法』の喇叭合圖

 フランス軍事顧問団のギュティグ伍長によって教授されたフランス式ラッパ譜『喇叭符号』が刊行される前年、幕末の慶応2年(1866年)にイギリスの歩兵操典『FIELD EXERCISE AND EVOLUTIONS OF INFANTRY, 1861』を翻訳した『英国歩兵練法』が刊行されました。
 この教範の第5部「軽歩兵」第12節には、体系的なラッパ譜とその運用規則が詳細に収録されていました。しかし、当時の状況から見て、この英国式の記述はあくまで教範上の知識としての紹介にとどまり、実際の吹奏技術や部隊運用にまで結びついた形跡は乏しいと考えられます。
 対して、翌慶応3年(1867年)に導入されたギュティグによる『喇叭符号』は、フランス軍事顧問団による直接の実技指導を伴うものでした。以上の経緯から、日本において「最初の実演用ラッパ譜」としての役割を果たしたのは、実務的な普及をみたフランス式の体系であった可能性が極めて高いと言えます。


英国陸軍省公式歩兵教練書

 『英国陸軍省公式歩兵教練書 FIELD EXERCISE AND EVOLUTIONS OF INFANTRY(1861)』は、英国陸軍省が制定した公式の歩兵教練書で、歩兵の号令、隊形運動、行進、および野外教練の基準を定めた「官定教範」としての役割を担っていました。(以下、『英国歩兵教練書 1861』と略記)
 表紙には「AS REVISED By Her Majesty's Command(女王陛下の命により改訂)」と記されており、当時の英国君主であるヴィクトリア女王の認可を受けた公式文書であることがわかります。本書は1861年に内容が改訂され、翌1862年に出版されたものです。

FIELD EXERCISE AND EVOLUTIONS OF INFANTRY 1861

 この『英国歩兵練法 1861』の第5部(PART V)「軽歩兵(LIGHT INFANTRY)」、その第12節(XII)「号令および信号ラッパ(Words of Command and Bugle Sounds)」に、15の信号ラッパ譜が記されています。

『英国歩兵練法 1861』 第5部 目次
『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節

軽歩兵教練における命令伝達とラッパ号音の運用原則

 ラッパ号音の運用に関して11の原則が記されていて、イギリス軽歩兵においてのラッパ号音は「主たる指揮手段ではなく、限定的・補助的な伝達手段」であることがわかります。

  1. Light infantry movements must in general be regulated by word of command. Commands must be repeated by the captains and every supernumerary belonging to the line of skirmishers. The connecting links may be employed, when necessary, to pass words of command, or convey intelligence backwards and forwards between the reserve and supports, and between the supports and skirmishers. When on account of the distance, or from noise or wind, the voice cannot be distinctly heard, the connecting links should run up and deliver their orders to the officers for whom they are intended, and then resume their places.

    • 軽歩兵の運動は、原則として肉声による号令によって統制されなければならない。 号令は、大尉(中隊長)および散兵線に属するすべての准士官・下士官によって復唱されなければならない。必要に応じて、予備隊と支援隊の間、および支援隊と散兵の間で、号令を伝達したり情報をやり取りしたりするために「連絡係」を配置してもよい。距離、あるいは騒音や風のために声がはっきりと聞き取れない場合、連絡係は対象となる将校のもとへ駆け寄って命令を伝え、その後、元の位置に戻るものとする。

  2. Calls on the bugle may occasionally be necessary as substitutes for the voice, but as they are liable to be misunderstood, and as they reveal intended movements to the enemy, who will soon become acquainted with them, they should seldom be used, unless for purposes of drill.

    • 音声の代用として信号ラッパが必要になることもあるが、これらは誤解を招きやすく、またすぐに信号を覚えるであろう敵に対して自軍の意図する動きを露呈させてしまうため、教練目的以外では、滅多に使用すべきではない。

  3. Bugle sounds must be as few and as simple as possible. None but the following sounds must ever be used in light drill:

    • 信号ラッパの音数は、可能な限り少なく、かつ単純でなければならない。軽歩兵教練においては、以下に掲げる号音(ラッパ信号譜)以外は、いかなる場合でも使用してはならない。

  4. One G sounded on the bugle denotes the right of the line. Two G's the centre. Three G's the left.

    • ラッパで鳴らされる1回の「G音」は戦列の右翼を示し、2回の「G音」は中央、3回の「G音」は左翼を示す。

  5. The G's preceding any sound denote the part of the line to which it applies. For instance; two G's before the Extend, signifies to extend from the Centre. One G followed by the Close, to close to the Right. One G followed by the Incline, to incline to the right. Three G's, followed by the Wheel, to wheel to the left.

    • 各信号音の前に吹奏される「G音」は、その信号が戦列のどの部分に適用されるかを示すものである。 たとえば、「散開(Extend)」の前に 2回のG音 を奏する場合、それは中央から散開せよという意味である。 「集結(Close)」の前に 1回のG音 を奏する場合は、右翼へ向かって集結せよという意味となる。 「斜進(Incline)」の前に 1回のG音 を奏する場合は、右へ斜進せよという意味である。 また、「旋回(Wheel)」の前に 3回のG音 を奏する場合は、左へ旋回せよという意味を表す。

  6. Every regiment should have a well marked and simple regimental call.

    • すべての連隊は、明確に区別でき、かつ簡潔な「連隊呼集信号」を持たなければならない。

  7. The Advance or the Retire sounded when inclining to the flank, indicates that the original direction is to be resumed.

    • 側面へ斜進(インクライン)している際に「前進(アドバンス)」または「後退(リタイア)」が鳴らされた場合、それは元の進行方向に戻ることを意味する。

  8. When moving by sound of bugle, men will wait till the bugle has ceased before they move.

    • ラッパの号音によって移動する場合、兵士は号音が終了するまで待ち、その後に移動を開始するものとする。

  9. When The Fire is combined with any other call, it should always be the last sounded, for if the men commenced firing they would not hear the second call.

    • 「射撃(The Fire)」の号音を他の号音と併用する場合には、必ず最後に吹奏しなければならない。兵士が射撃を開始すると、その後の号音は聞き取れなくなるためである。

  10. The commanding officer's bugle will generally be found sufficient in light infantry drill; repeated sounds only create confusion and delay.

    • 軽歩兵教練においては、通常、指揮官の信号ラッパだけで十分である。信号音を繰り返すことは、混乱と遅延を招くだけである。

  11. Bugle sounds do not apply to bodies of troops in reserve.

    • 信号ラッパによる命令は、後方に待機する部隊(リザーブ)には適用されない。

15のラッパ号音

 『英国歩兵練法 1861』に記されるのは以下の15ラッパ号音のみです。

I. EXTAND.
 散開 : 間隔を広げる

『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節 I. EXTAND.

II. ClOSE.
 集結 : 間隔を詰める

『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節 II. ClOSE.

III. ADVANCE.
 前進 : 行進方向への前進

『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節 III. ADVANCE.

IV. RETIRE.
 後退 : 秩序だった後退

『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節 IV. RETIRE.

V. HALT.
 止まれ : 停止
 The Halt annuls all previous Sounds except the Fire.「止まれ」の信号は、以前に出されたすべての信号を無効化する。ただし、「射撃(ファイヤ)」の信号だけは例外とする。)

『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節 V. HALT.

VI.COMMENCE FIRING.
 射撃開始

『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節 VI.COMMENCE FIRING.

VII. CEASE FIRING.
 射撃中止

『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節 VII. CEASE FIRING.

VIII. ASSEMBLE.
 集合 : 散兵状態を解き、集合隊形に復帰する

『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節 VIII. ASSEMBLE.

IX. INCLINE.
 斜進 : 方向を斜めに変える

『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節 IX. INCLINE.

 IX.およびX.の信号ラッパを吹奏する際には、必ずその前に「右・中央・左」を識別するためのG音を吹奏しなければなりません。(The calls IX. and X. must be preceded by the distinguishing G’s.)

X.WHEEL.
 旋回 : 軸を中心に回頭

『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節 X.WHEEL.

XI. THE ALARM, OR LOOK OUT FOR CAVALRY.
 警戒 : 騎兵来襲警戒

『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節 XI. THE ALARM, OR LOOK OUT FOR CAVALRY.

XII. THE QUICK TIME.
 速歩 : 通常歩調より速い

『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節 XII. THE QUICK TIME.

XIII. THE DOUBLE TIME.
 駆け足

『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節 XIII. THE DOUBLE TIME.

XIV. LIE DOWN.
 伏せ : 地面に伏す

『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節 XIV. LIE DOWN.

XV. RISE.
 立て : 伏せから起立

『英国歩兵練法 1861』第5部 第12節 XV. RISE.

『英国歩兵練法』の成立と日本におけるラッパ信号の導入

『英国歩兵練法』と原書の概要

 『英国歩兵練法』は、英国陸軍の官定教範である『FIELD EXERCISE AND EVOLUTIONS OF INFANTRY(1861)』(以下、『英国歩兵教練書 1861』)を邦訳したものです。原本の表紙には「女王陛下の命により改訂(AS REVISED By Her Majesty's Command)」と記されており、ヴィクトリア女王の認可を受けた公式な基準を示す文書であることがわかります。

翻訳の経緯と刊行

 慶応元年(1865)5月、上田藩士の赤松小三郎と金沢藩士の浅津富之助が分担して翻訳を開始しました。その成果は慶応2年(1866)3月、江戸日本橋の山城屋を製本所としてまとめて刊行されたものと考えられています。

 翻訳は各編並行して進められ、以下の通りの分担で行われました。
構 成 内  容      翻訳時期(慶応元年)  訳 者
第1編 生兵小隊(Recruits) 始夏(4月)  赤松小三郎
第2編 小  隊(Company) 孟秋(7月)  浅津富之助
第3編 旋条銃使用法(Rifle) 中秋(8月)  赤松小三郎
第4編 大隊運動(Battalion) 仲夏(5月)  浅津富之助
第5編 軽歩兵(Light Infantry)孟冬(10月)  赤松小三郎

信号ラッパに関する記述と歴史的位置づけ

 本書の「第5編 軽歩兵」第十二箇条は「號令並に喇叭合圖の事」と題されています。原本である『英国歩兵教練書 1861』の目次を確認すると、第5部(PART V)第12節(XII)が「Words of Command and Bugle Sounds(号令および信号ラッパ)」となっており、章立てが完全に一致しています。このことから、邦訳版においても原本に基づいた15種類の号音(ラッパ譜)が紹介されているものと推察されます。
 しかし、当時の状況を鑑みると、この英国式の記述はあくまで教範上の「知識」としての紹介に留まっていました。実際に吹奏技術が伝習され、部隊運用に結びついたのは、その翌年の慶応3年(1867年)にフランス軍事顧問団のギュティグ伍長によって教授されたフランス式の体系(『喇叭符号 全』)であった可能性が極めて高いと言えます。

その後の展開:薩摩版「赤本」

 なお、「赤松小三郎」ウェブサイトによると、慶応3年(1867)5月には「英国歩兵練法」1864年改訂版 *1の原書を翻訳・加筆した「重訂英国歩兵練法」(薩摩版)が刊行されました。これは全7編9冊からなり、表紙の色から「赤本」と呼ばれ、後の日本陸軍の教範形成にも影響を与えたことで知られています。

*1 原本の改訂について「Field Exercise and Evolutions of Infantry Revised」は、1859年版、1861年版(本作の底本)、1867年版、1877年版、1884年版と改訂が重ねられました。

「最初に書かれた」より、「最初に吹かれた」ラッパへ

 本稿では、幕末に邦訳された『英国歩兵練法(1861)』に収録された軽歩兵用ラッパ号音と、その運用の考え方を見てきました。そこから浮かび上がってくるのは、英国式におけるラッパ信号が、決して万能な指揮手段ではなかったという点です。あくまで基本は肉声による号令であり、ラッパは声が届かない場合の補助として、きわめて慎重に使われる存在でした。

 号音の数は少なく、意味は単純に保たれ、使用のしすぎは混乱を招くものとして戒められています。さらに、信号が敵に意図を悟られる危険性まで明記されている点からは、ラッパという「音」が持つ情報性への鋭い認識が感じられます。

 この英国式ラッパ譜は、日本において比較的早い段階で翻訳・紹介されました。しかし、当時の状況を考えると、それはあくまで教範上の「知識」として触れられたに過ぎず、実際にラッパが吹かれ、部隊がそれに従って動くという段階にまでは至らなかったようです。

 一方、翌慶応三年(1867)にフランス軍事顧問団のギュティグ伍長によって教授されたフランス式ラッパ体系は、書物だけでなく、実技指導を伴って日本にもたらされました。ラッパは実際に吹かれ、音として体で覚えられ、動作と結びつきながら定着していったのです。

 こうして見ると、日本のラッパ史において重要なのは、「どの国の教範が最初に翻訳されたか」ではなく、「どの体系が最初に音として響いたか」だったのではないでしょうか。紙の上に書かれたラッパ譜と、実際に吹き鳴らされたラッパ。その違いこそが、その後の日本におけるラッパ文化の方向性を決定づけたように思われます。

次回は・・・

 英国陸軍省公式歩兵教練書の思想を体現する存在であり、日本の吹奏楽の始まりを牽引した英国陸軍軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton, 1828–1890)について触れます。


【日本のラッパの起源と進化】シリーズ 1〜30

日本のラッパの起源と進化】 - その1
 
― フランス軍事顧問団とギュティグの役割 ―
日本のラッパの起源と進化】 - その2
 
― 二度来日したラッパ伍長ギュティグ ―
日本のラッパの起源と進化】 - その3
 
― 喇叭譜号 全 (一般信号) ―
日本のラッパの起源と進化】 - その4
 
― 喇叭譜号 全 (運動合図信号) ―
日本のラッパの起源と進化】 - その5
 ― 喇叭譜号 全 (三重奏と部隊信号) ―
日本のラッパの起源と進化】- その6
 
― 『英国歩兵練法』慶応2年の喇叭合圖 ―
日本のラッパの起源と進化】- その7
 ― 『英国歩兵練法』とフェントン ―
日本のラッパの起源と進化】- その7 - 2
 
― 『英国歩兵練法』とフェントン (改訂版) ―
日本のラッパの起源と進化】- その8
 ― 『英国尾栓銃練兵新式』と『英国銃隊練法』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その9
 
― 『旭川と佐呂間でラッパ隊を聞く』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その10
 
― 『陸海軍喇叭譜 (1885)』その1 ―
日本のラッパの起源と進化】- その11
 
― 『陸海軍喇叭譜 (1885)』その2 ―
日本のラッパの起源と進化】- その12
 ― 『陸海軍喇叭譜 (1885)』その3 ―
日本のラッパの起源と進化】- その13
 
― 『諸外国の「食事ラッパ譜」』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その14
 
― 『日本の「食事ラッパ譜」』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その15
 
― 『駆歩行進』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その16
 ― 『北海道のラッパ』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その17
 ― 『浜松まつりのラッパ』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その18
 ― 『おかえり祭りは二種類ラッパが交互に響く』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その19
 ― 『美川で最初に吹き鳴らされたラッパ譜』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その20
 ― 『音商標への登録』 ―
日本のラッパの起源と進化】- 番外編
 ― 『ビューグル』 ― 《BandLifeWorld版》
日本のラッパの起源と進化】- その21
 ― 偕行文庫の『陸海軍喇叭譜』―
日本のラッパの起源と進化】- 番外編
 ― 『ビューグル─音が伝えるもの、形が残すもの』 ―
日本のラッパの起源と進化】- その22
 ― 『イタリア・トリノの消灯ラッパ』―
日本のラッパの起源と進化】- その22 改訂版
 ― 『夜空のトランペットのルーツ』―
日本のラッパの起源と進化】- その23
 ― 『朝はラッパで始まる ― 起床ラッパ二百年の歴史 』―
日本のラッパの起源と進化】- その24
 ― 『いまさらですが「らっぱ」って何ですか』―
日本のラッパの起源と進化】- その25
 ― 『消えゆくラッパの響き ― 佐呂間消防団ラッパ隊の記録』―
日本のラッパの起源と進化】- その26
 ― 『ながのってすごいぞ/御柱』―
日本のラッパの起源と進化】- その27
 ― 『ながのってすごいぞ―消防:基礎編』―
日本のラッパの起源と進化】- その28
 ― 『ながのってすごいぞ―消防:応用編』―
日本のラッパの起源と進化】- その29
 ― 『戦後ラッパ譜の成立 ― 須摩洋朔と自衛隊音楽隊の出発』―
日本のラッパの起源と進化】- その30
 ― 『現代音楽作曲家のラッパ譜 ― 黛敏郎と自衛隊儀礼音楽』―
【日本のラッパの起源と進化】- その31
 ― 『(仮)日本のラッパ文化の構造』―

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