#638[短編]琥珀色の間[27]──泡沫の桜
大翔の兄・祐希は世界のちょっとしたズレを楽しむ天才だった。連載第32回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、11話、12話、13話、14話、15話、16話、17話-I、17話-II、18話-I、18話-II、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
種は、撒いた瞬間には意味が分からなくても、
物語が進むと「芽」になる。
あの奇跡のような桜吹雪も、兄のいたずらだったのか──
「いらっしゃい!」マスターの澪の笑顔がはじける。大翔は会釈をして、扉に両手を添えて静かに閉めた。
「お久しぶりですね、大翔さん」大翔はカウンターにつくと、澪の「前のと同じ」と同じタイミングで相槌をした。あの日──爽子がいたカウンターの木目をじっとみつめ、澪の手で揺れる氷の音に耳を澄ませる。
早い時間のせいか客は大翔1人で、大きなプロジェクターに夜のニュースが流れている。大翔は1日の終わりに必ずニュースを確認するのが習慣になっていた。
◇
「はい、どうぞ」丸みを帯びた大きめのタンブラーに薄い琥珀色のスコッチウィスキー。それにソーダの泡がゆっくりと立ち上る。
「澪さんもご一緒に」大翔は少しはにかんで、照れ隠しのように、右手で耳の上の髪をそっと撫でつけた。「かんぱーい」澪は大翔とグラスを合わせた。いくらか会話をした後で、澪がふいに切り出した。
「大翔さん。ちょっといいですか?」
「はい、なんでしょう?」
「次のお客さんが来る前に……えーと、爽子ちゃんからです」澪は1通の白い封筒を差し出した。表には大翔の名前が丁寧な字で書かれ、小さな桜のシールで封がされていた。
「私もいただいたんです」澪はにこやかに大翔を促し、奥で調理を始めた。
◇
大翔は封筒を見つめ、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。
そして、ゆっくりと封をあけた。
大翔さんへ
先日はありがとうございました。澪さんにもしばらく会えないため、手紙で失礼します。
私は今度、紛争地帯での小児医療支援に参加することになりました。これまでは麻酔科医として勤務していましたが、思うところがあり、放射線科に転科したばかりでした。音高に落ちて医師になったこともあり、自分が本当に誰かの力になれるのかを、もう一度確かめたいと思ったことが理由です。
それから、以前に同僚を亡くした経験があります。その喪失と向き合う中で、自分の命の使い方をずっと模索してきました。現地での生活に不安もありますが、今の自分にできる形で関わりたいと思っています。
初めてお会いした日以降、自分の生き方について考える時間が増えました。大翔さんが私にくれた静かな影響に、心から感謝しています。張り詰めていた気持ちが少しだけ和らぐような、温かい時間をありがとうございました。
大翔さんも、どうぞ夢を大切に進んでください。お元気でお過ごしになられますように。
追伸 あの桜吹雪は、やはりお兄さんのいたずらだったのでしょうか。ふと、そんなことを思い出しています。
鈴木 爽子
◇
最後に記されたその名前を見つめたまま、大翔は浅い息を吐き出した。便箋の向こう側では、丸いタンブラーの中でソーダの泡がゆっくりと上がっていく。
「澪さん。爽子さん、いつ……?」
「このあと……?」澪のスマートウォッチが光る。「あ、いや……」掠れた声で問いかけた瞬間、静まり返っていた店の重い扉が、外からの夜気を孕んで静かに開いた。
「いらっしゃい!」澪が入口を見ると、1人の男が入ってきた。
馴染みの客の豊川だった。大翔の上司よりも年上で、仕立てのよい柄シャツとジャケットがトレードマークの、品のある佇まいだ。
豊川が席に着き、ゆったりと電子たばこをふかし始める。大翔は店に豊川がいると、不思議な安堵感を覚えていた。
澪は豊川の前にそっと歩み寄ると、大翔にギリギリ聞こえるかどうかの小声で「いつもの?」と声を落としたのを、豊川は視線で受け止める。
「うん」聞こえるか聞こえないか、掠れた声で豊川が応じると、澪は静かに頷いて、奥の棚へ手を伸ばした。
「豊川さん、こんばんは」
「やあ。君も早いね」
豊川は大翔と同じタンブラーで、シングルのスコッチウィスキーに口をつける。
「そうですね、はい……」大翔が言葉を探していると、豊川が澪に言う。
「ああ。爽子ちゃん、今晩だったっけ」
澪は「たしか」と言って、再び携帯を確認し始めた。
豊川が俯いて深く息を吐き出すと、電子たばこの白い煙が一気に席の後ろへ吹き出た。大翔はみんなが知っていることに、胸がチクリと痛んだ。
「澪さん、俺……」行った方がいいのか、それとも待ってた方が?大翔は言いかけてはやめ、自分に確かめるように目を泳がせた。
大翔はハッとした。なぜか自分の中で、爽子がいなければここに来てはいけない錯覚に縛られていた。大翔は一気に後悔が押し寄せて、無意識に手紙を折りたたんだ。
何げなく見上げたプロジェクターの画面が、冷徹な光を放ちながら明滅している。世界のどこかで起きている、遠い紛争地帯のニュース。画面の向こうで立ち上る黒い煙の映像が、大翔の瞳を青白く照らし出した。
──あの桜吹雪はやはり、お兄さんのいたずらだったのでしょうか。
容赦のない現実の光が、爽子の手紙の文字と重なり、胸の奥にじわりと、名前のない不吉な暗闇が広がっていくのを感じた。
美術館の脇の小径をぬけたとき──
爽子が、ふっと笑った瞬間があった。
ほんの一瞬だけ肩の力が抜けて、
目の奥の影が薄くなる。
その笑顔が──
誰かに見せるためじゃなかった。
爽子はただそこにある光を吸い込むような、細い糸がふっと緩むように笑った。
強い人が、ふと弱さを忘れたような。その瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。理由はわからない。ただ、この人の笑顔をもう一度見たい、そう思った。それだけだった。
「……俺の未来に、ずっと居てくれませんか」
そんな言葉が喉まで上がってきて、
けれど声にはならなかった。
──小さなソーダの泡が、帰る場所を探すようにただ上へと昇り続けている。
<了, 約 2,500 字>
すみません、描写を少し直しました😶(5/27, 6/15)

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