#635[短編]琥珀色の間[25]──いたずらの天才・I
賛美歌が、封じていた記憶を呼び起こした。いたずらの天才との思い出を打ち明ける大翔。連載第30回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、11話、12話、13話、14話、15話、16話、17話-I、17話-II、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
耳の奥に残るオルガンの残響が、心の海の深い底に眠っていた、思い出を連れてくる──
「帰ったら勝負だよ。ねえ、ゼッタイだよ?」
祐希のワイシャツを引っ張るのは、頭ひとつ分ちいさな、弟の大翔だった。
「ふっ、このおれに勝負を挑むとは。100年早いぞ。身の程をわきまえるんだな、大翔」祐希はふふんと見下ろして、大翔の手を軽やかにかわした。
「祐希!」奥から母親の声が飛ぶ。
「だって、しつこいんだもんこいつ。勝つまで絶対やめないし」
祐希は、はにかんだ困り顔で大翔の頭をくしゃくしゃに撫でた。大翔が泣きそうな顔でムッとすると、今度は得意げに言う。
「じゃあ、おれのコインをやるから帰ったらマシンを強くしよう。な、それならいいだろ?」
大翔はパッと顔を上げて大きく返事をした。
「絶対だよ!」
「大翔も……早く行きなさい、2人とも」
2人は目を合わせ、祐希は約束の拳を突き合わせた。
「じゃーな!」
「負けないからね!」
拳は父親との絆でもあった。
父が忙しくて会えない日でも、祐希は必ず大翔と拳を合わせた。
大翔は玄関まで、兄を見送った。
眩しい朝の光のなか、祐希の背中は、あっという間に遠ざかっていった。
◇
その日の、5時限目が終わる頃だった。大翔の教室をノックする音がして、担任が応じると大翔が手招きされた。
「新羽さん、ちょっと……」席を立ってドアに近づくと、事務員が軽く会釈する。
「新羽大翔さん。私は事務員の前田です。びっくりさせてごめんなさい。これからおうちの病院に行ってもらえますか。詳しいことは病院の係の人に聞いてください。走らずに、ゆっくりと帰ってくださいね」
前田さんと名乗るその人は、よく見かけるおじさんだった。50歳を過ぎた頭髪の薄い、分厚い縁の、上の部分だけ黒くて太いメガネ、ワイシャツの袖に黒いカバーをつけていた。
落ち着いた口調とは裏腹に、先生の表情は少しだけ緊張が走っていた。
学校をあとにし、言われた通り、走らずに一歩ずつ確かめるようにして帰った。見慣れた交差点の向こうに、いつもと変わらない病院の白い建物が近づいてくる。大翔の頭には、かつて母から言われた言葉がふいによぎっていた。
◇
「病院が好きだなんて、変な子ね」
母親にはよくそう言われていたが、父に憧れて院長室で宿題をするのが好きだった。父親は大翔に構うこともなく大きなデスクで仕事をしていた。
学校帰りに病院へ寄ると、正面玄関から元気よく入って叱られた。
大翔は職員とも顔見知りで、走ったり、大きな声を出して、看護師長に叱られたこともあった。
「救急の方から入りなさい」と言われていたので、この日も時間外通用口から入った。
トイレの前で救急隊員の人とすれ違ったあと、近くにいた看護師に促されて、手術室のフロアへ上がった。
◇
手術室の受付の小窓で、大翔は白いキャップの看護師と目が合った。内線で何かを話しながら、大翔に小さく頷いた。
どれくらい待っただろう──白い床から冷たい空気がじんわりとあがり、急にお腹が空いてきた。
「みやうち師長……」顔見知りの姿を見つけ、大翔はすがるように、看護師長の宮内に話しかけた。言い終わらないうちに宮内は、「あとでね」とだけ言い残して、冷たい扉の向こうへ消えていった。
何も知らされない時間が、胸の奥をざわつかせた。
授業中に呼ばれて、手術室に来て、誰も何も言わない。
──自分が子どもだから相手にされない。
──触れてはいけない病院の聖域だから。
大翔は意味もなく手術室の前をうろうろして、誰かが来るのを待っていた。
執筆: 2026/5/19, 改稿: 5/21,5/28 <了, 約 1,500 字>
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