#637[短編]琥珀色の間[26]──いたずらの天才・II
賛美歌が、封じていた記憶を呼び起こした。いたずらの天才との思い出を打ち明ける大翔。連載第31回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、11話、12話、13話、14話、15話、16話、17話-I、17話-II、18話-I、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
銀縁のドアが唐突に開いた。父がいた。手術帽子とマスクをつけたまま、ガウンの首元と帽子の縁に汗が染みている。入口の境界線まで大翔を呼ぶと、鋭い眼光で早口に告げた。
「祐希が交通事故に遭った。手は尽くした。あとはあいつの生きるチカラだけだ。会いに行ってやりなさい。とてもよく頑張っている」
大翔はこれほど鋭い眼差しの父親の姿を初めて目にした。院長室でコーヒーを片手にイライラしている姿とは、まるで別人だった。心なしか、父の声がいつもより低く聞こえた。
宮内師長の案内で、祐希のいるベッドに着いた。
モニターの前には研修医の先生がいた。手術着が違うその医師を、大翔はなぜかよく覚えていた。院長室へ挨拶に来た、若い先生だった。
祐希は静かに目を閉じていた。
モニターの音だけが祐希が生きていることを告げている。別の医師が促して、大翔はそろそろと祐希に近づいた。
祐希の左のこめかみと頬には、赤黒い擦り傷があった。それ以外は自分と同じような顔色の、ごく普通の中学生だった。
「大翔君、手を握ってあげて」
大翔を促した医師のマスクが揺れる。宮内師長がシーツの裾をめくると、祐希の手が現れた。大翔が恐る恐る触れると、祐希の手はほんのりと温かかった。
──目がさめたらまたゲームができる。
大翔の胸に根拠のない安心が広がっていった。
「ユウキ……?」大翔は自分の頭の中で声を出した。
一瞬、祐希の手が動いたような気がして、大翔は祐希に呼びかけた。
「ユウキ!」周りの医師たちがざわついた。
大翔は祐希の手を握ったまま、もう一度呼んだ。
「ねえ、起きてよ。コインくれるんでしょ?」
祐希の瞼は動かなかった。
それでも──もう一度だけ、祐希は手を握り返した。
そんなはずはないと、後で会う人会う人に言われた。
祐希は返事をしたと、大翔はずっと思い続けていた。
突然、祐希の手からスッと……体温が下がっていくのを感じた。
驚いて周りをきょろきょろ見ると、宮内師長が大翔を見て言った。
「祐希、頑張ったね」
宮内師長の目尻にうっすらと涙が滲んでいた。幼い頃から知る宮内の涙を、大翔はこの日、初めて見た。
父は過度な延命を指示せず、自分の代わりに大翔を祐希の最期に立ち合わせた。いま思うと、モニターの音は枕元にいた医師が鳴らないようにしてくれていたんだろう。あの日、父親がどんな顔でその決断をしたのか、大翔は今でもうまく想像できない──
「おれの元気、分けてあげられないのかな」
その場の誰もが俯いたまま、祐希を見つめていた──
──耳の奥で鳴り響いていた静けさが、いま、携帯の向こうから聞こえる賛美歌と、ゆっくりと重なっていく──
◇
大翔は爽子との通話をつないだまま、いつの間にか涙を流していた。
電話越しの静けさが、胸の奥の古い痛みにそっと触れた。
『爽子さん……』
『俺、兄がいました』
爽子はゆっくりと目を開けて教会の柵を見つめる。
『めちゃめちゃ泣かされました。頭が良くて、いつも手の込んだいたずらで……』大翔はふっと笑い、爽子も笑った。
「ん……」
『幼稚園の頃、ハロウィンの日に、ゼリーがあるよ、って冷蔵庫を開けたら……眼球がいっぱい入ったグラスに赤いジュースが入ってて』
思い出を語る声の奥に、かすかな震えが混じっていた。
『兄は……中学2年でした。俺、中学に入ってから、親父のこと殴ったんです。助けられないなら医者なんか辞めちまえ、って』
爽子は息を呑み、胸の前でそっと指を握りしめた。
『それで、親父が本気で殴り返してきて……』
「うん」爽子は言葉の合間に、息を添えた。
『いま、兄貴のことを考えてました──ありがとうございます。誰かのために、祈ってくれて……』
爽子は言葉を探しながら、ただ静かに耳を澄ませていた。
「今度、聞いてもいいですか。お兄さんのこと」
『はい』
「ごめんなさい、大翔さん。病院に戻りますね」
『はい、爽子さんも気をつけて。おやすみなさい』
「うん、おやすみなさい。ゆっくり休んで……」
2人の胸に、祈りの余韻だけが静かに残っていた。
教会の燈が揺れ、夜気の中へそっと溶けていった。
執筆: 2026/5/19 <了, 約 1,700 字>

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