本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性 そ第30話① 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 2光秀と光慶 (1)光秀の素性 6転機 そ第30話①
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2光秀と光慶 (1)光秀の素性 6転機 そ第30話①
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1素性 そ第53話 そ第54話① そ第54話② そ第54話③
2争乱 そ第155話① そ第155話②
3下剋上 そ第156話① そ第156話② そ第157話① そ第157話②
そ第158話① そ第158話② そ第158話③ そ第158話④
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4没落 そ第200話① そ第200話② そ第200話③
そ第201話① そ第201話② そ第201話③ そ第201話④
そ第201話⑤
5再興 そ第151話① そ第151話②
そ第152話① そ第152話② そ第152話③ そ第152話④
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そ第152話⑨ そ第152話⑩
6転機 そ第19話
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そ第28話 そ第29話① そ第29話② そ第30話①
6転機 永禄十年4 藤孝の中間
光秀は、細川藤孝へ近づいた。 →◎第30話 第30話 小
信長が、義昭を擁して上洛するのが、翌永禄十一年1568の秋。
七月~九月頃である。
冬は、雪のため、国境が閉ざされる(十二~二月頃か)。
また、準備・摺合せ等の時間も必要だったであろう。
これらを考慮すれば、
光秀は、遅くとも、永禄十年1567 十一月頃までには、細川藤孝に出会
っていた、ということになる。
この辺りが、ギリギリのタイミングになるのではないだろうか。
おそらく、それより、もう少し、早い時期。
義昭が、まだ、敦賀にいた時。
かつ、信長が、稲葉山を攻略した頃。 →そ第28話
その、直後のあたりではないか、・・・・・。
光秀は、細川藤孝に仕えた。
後に、幕臣(足軽)になり、信長の家臣になることを考えれば、藤孝の家臣
というよりも、もっとフリーな立場、食客・協力者とも言うべき存在だっ
たのではないか。
光秀は、細川藤孝と密接な関係にあった。
藤孝が、苦境に陥っていた時期。
信長が、美濃を制圧。
そして、「天下布武」。
これすなわち、準備完了の意。
信長の意思表示である。
「上洛」
正に、ベストタイミング。
ならば、「交渉再開」か、・・・・・。
ところが、あいにく、季節は、冬。
となれば、来たる春。
光秀は、細川藤孝と、表裏一体となって、信長との交渉に当たった。
その様な、流れだったのでは、ないだろうか。
そう、推測するが、如何だろうか。
(1)フロイスの証言。
「信長の治世の初期」とあるから、この頃のことである。
なお、これは本能寺の変後に記述された。
信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。
彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、
公方様の邸の一貴人兵部太輔と称する人に奉仕していたのであるが、
光秀は、出来る男。
光秀は、優れた能力の持主だった。
フロイスは、そのことを次の様に表現している。
その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、
主君とその恩恵を利することをわきまえていた。
【重史101】(『日本史』)
信長は、イエズス会の庇護者。
光秀は、その信長を殺害した男(天正十年六月二日)。
彼らは、光秀に対して悪感情をいだいていた。
(2)多聞院英俊の証言。
以下は、山崎の合戦(天正十年六月十三日)で、秀吉に敗れた光秀が、
逃げる途中で一揆勢に討ち取られたことを記録したものである。
この中にも、これに関する記述がある。
一、惟任日向守は、十二日勝龍寺より迯(逃)げて、山階(科)にて、
一揆にたたき殺され了(おわんぬ)、
首もむくろ(骸)も、京へ引き了と云々、
浅猿(あさまし)〃〃、
光秀は、細川藤孝の「中間」だった。
「大恩を忘れ」、「天命此の如し」、とある。
これが、当時の人々の、一般的な見解だったのだろう。
細川ノ兵部太夫が中間にてありしを、これ引き立て、
中國の名誉に、信長、厚恩にて、これ召し遣はされ、
大恩を忘れ、曲事(くせごと=謀叛)を致し、
天命此(かく)の如し、
【重史102】(「多聞院日記」天正十年六月十七日条)
斯くして、光秀は、細川藤孝に巡り合った。
次は、信長、稲葉山・・・・・。
永禄十年1567、終。
⇒ 次へつづく
