本能寺の変1582 【四国問題】 八 250829 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【四国問題】天正八年1580 250829
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 250829
天正八年1580 250829
閏3月7日 天正08 158010307
本願寺が降伏した。
『信長公記』
4月9日 天正08 158010409
顕如が、石山の地を去った(雑賀へ)。
『信長公記』
6月12日 【重史152】 ✓ 天正08 158010612
信長は、長宗我部元親に、三好との和睦を命じた。
すなわち、停戦命令。
①三好式部少輔の事、此方(こなた)に別心なく候、
②猶、三好山城守(康長)、申すべく候也、
「古証文」「織田信長文書の研究」
6月14日 【重史153】 ✓ 天正08 158010614
三好の新当主(康長)から、長宗我部元親への、挨拶状である。
①爾来(じらい=以来)、申し承らず候、
②仍って、阿刕(あしゅう=阿州)表の儀に就きて、
③信長より、朱印を以って、申され候、
「古証文」「織田信長文書の研究」
6月26日 【重史154】 公 天正08 158010626
織田と長宗我部は、友好関係にあった。
①土佐国補佐せしめ候長宗我部土佐守、
②惟任日向守、執奏にて、
③御鷹十六聯、幷(ならび)に砂糖三千斤、進上。
『信長公記』
8月2日 天正08 158010802
本願寺、退城。
『信長公記』
8月中頃 【重史163】 信✓公 天正08 1580008**
戦いが終われば、粛清が始まる。
①爰(ここ)にて、佐久間右衛門かたへ、御折檻の条、
②御自筆にて、仰せ遣はさるゝ趣、
『信長公記』1~2/19
〃 〃 【重史172】 公 天正08 1580008**
斯くして、佐久間信盛の粛清は、完了した。
用が済めば、粛清される。
役に立たねば、粛清される。
邪魔になれば、粛清される。
このことが、光秀の脳裏から、離れない。
①抑(そもそ)も、天下を申しつくる信長に、
②口答申す輩(ともがら)、前代に始り候条、
『信長公記』末尾部分
11月24日 【重史185】 ✓ 天正08 158011124
元親は、秀吉とも連絡を取り合っていた。
①大坂を逃げ下る牢人ども、
②紀州(雑賀衆)・淡州(勢)相催し、
③阿州勝瑞へ渡られ、再籠に及び、
「吉田文書」3/8
〃 〃 【重史187】 ✓ 天正08 158001124
信長は、三好康長を四国(讃岐)へ出陣させるつもりでいた。
三好山城守、近日、讃州安富館(雨滝城)に至り下国必定に候、
「吉田文書」6/8
〃 〃 【重史188】 ✓ 天正08 158001124
信長は、瀬戸内海の制海権を手に入れようとしていた。
秀吉は、淡路島の野口長宗を調略した。
元親は、淡路島に、野心があった。
①淡州野口(長宗)方の所来、
②此比、淡州の儀、如何、仰せ付けらるゝべく候、
③淡州の儀、仰せ下さるゝ次第、心懸け致すべく候哉、
「吉田文書」7/8
〃 〃 【重史189】 ✓ 天正08 158001124
斎藤利三が、元親と秀吉の間に立った。
①善悪の御助言、(秀吉に)頼み奉る外他無く候、
②斎藤内蔵助方まで、申し登せ候間、
③自然(じねん)の時は、貴意を得らるべく候、
「吉田文書」8/8
12月25日 【重史186】 ✓ 天正08 158011225
信長と元親の関係は、良好だった。
①大坂存分に属するに就きて、
②伊予鷂(ハイタカ)、五居(すえ)到来、
③隣国との干戈(かんか=戦い)の事、
④彼是(かれこれ)、惟任日向守、申すべく候也、
「土佐国蠧簡集」
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