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本能寺の変1582 備中高松城 №6-186 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

備中高松城 №6-186

はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
【五大要因】  
1 時代の風潮
 
 1戦国時代=相互不信の時代
  2美濃
  3尾張
2 光秀の実像
 
 1信長という男
  2光秀という男
  3光秀と光慶  1光秀の素性 2光秀の年齢 3嫡男光慶
  4先祖の教訓
  5大量殺戮
  6信長の弱点
3 光秀の苦悩
 
 1粛清の怖れ
  2志向の相違
  3光秀の老い
  4四国問題
  5自立への道
4 武田の滅亡
 
 1甲斐遠征
  2勝頼の首
  3武田効果
5 信長の油断 大要 概略
  
「事態急変」
  1 勝利の余韻  概略 4月21日 24日
  2 四国出陣   概略 5月7日 1/3 2/3 3/3 11日
  3 足蹴事件 概略 5月12日  1/5  2/5  3/5  4/5
                     5/5
              5月15日
              密室にて   1/3  2/3  3/3①~⑤
                             ④ 概
                     ⑤ 概
  4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
              5月17日 大 概
              5月19日 大 概
              5月20日 大 概
              5月21日 大 概
  5 時は今、・・・・・。
              5月26日 大 概
              5月27日 大 概
              5月28日 大 概
              5月29日 大 概
さる程に、不慮の題目出来候て、
【注目ポイント】 目次
【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
【人物】
←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
【四国問題】    目次 【四国問題 概要】   十
【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
←【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正

備中高松城 №6-186

【記事一覧】【五大要因】  5 信長の油断>4 中国出陣>
             →【四国問題】 天正十年 目次 備中高松城
             →【重史227】 【重史018】

五月中頃。
秀吉は、備中高松城を水攻めにしていた。         【重史227】
「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるゝ事」

  中国備中へ、羽柴筑前守相働き、
  すくも塚の城、あらあらと取り寄せ、攻め落し、数多討ち捕り、
  並びに、ゑつたが城へ、又、取り懸け侯ところ、降参申し、
  罷り退き、
  高松の城へ一所に楯籠るなり。

  又、高松へ取り詰め、見下墨(みさげすみ)、
  くも津川・ゑつた川、両河を関切り、水を湛へ、
  水攻めに申しつけられ候。

そこに、毛利の本軍が現れた。
秀吉より、信長へ。
注進あり。

  芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。

信長は、この好機を逃さない。
即座に、決断した。

  信長公、此等の趣聞こしめし及ばれ、
  今度、間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候間、
  御動座なされ、
                           (『信長公記』)

脳裏にあるのは、「勝頼の首」。      →3月17日 【重史018】
武田、滅亡。
信長は、瞬く間に、その所領 四ヶ国(甲斐・信濃・駿河・上野)を手に入れた。
これには、当の本人も驚いている。

 卅日・四十日際(きわ)に、一偏に属するの事、
 我ながら驚き入る計りに候、
                            「武家事紀」

信長は、絶対的な武力を手に入れた。          →【重史018】
「戦わずして、勝つ」                  →そ第74話②
信長の勢威は、絶頂に達していた。

これすなわち、「武田効果」。             →【重史018】
信長は、容赦しない。
毛利は、最早、風前の灯火。
「内側から、崩れる」
武田の二の舞とになる。

信長は、毛利を滅ぼすつもりだった。

  中国の歴々討ち果たし、

最早、この国には、信長に抗う者など、誰もいない。

さすれば、
「天下布武」=日本統一は、成る。
信長は、そう考えていた・・・・・。

信長は、九州をも平定しようとしていた。

  九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、
  
上意にて、
  堀久太郎(秀治)御使として、羽柴筑前かたへ、条々仰せ遣はされ、

信長は、光秀に中国出陣を命じた。

  惟任日向守・長岡与一郎(忠興)・池田勝三郎(恒興)・塩河吉(橘)大夫・
  高山右近(重友)・中川瀬兵衛(清秀)、
  先陣として、出勢すべきの旨、仰せ出だされ、則ち御暇下さる。
                           (『信長公記』)

すなわち、信長は、「天下統一」の一歩手前にいた。
このことを知っているのは、信長ただ一人・・・・・。
否、光秀も、知っていた・・・・・。

「天下統一」は、思いの外、早かったように思う。



 ⇒ 次へつづく




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