北海道の夜明けを告げた響き ── 屯田兵第四大隊とラッパ譜
【日本のラッパの起源と進化】- その32 (屯田兵のラッパ)
オホーツクの地に初めて響いたラッパの音は、屯田兵たちの一日の始まりを告げるものでした。その音は、軍務と開拓に追われた人々の暮らしを律する合図でもありました。今回は、そんな屯田兵とラッパの物語を整理してみました。
屯田兵制度とオホーツクへの入植
屯田兵は、1875年(明治8年)の札幌・琴似への入地を端緒とする、北海道の警備と開拓を担った兵士、およびその制度です。平時には農耕と開墾に従事し、戦時には兵士として軍隊に組み込まれる仕組みでした。
1904年(明治37年)に制度自体は廃止されましたが、その組織的基盤や開拓・防衛の精神は、旭川を拠点とする第7師団へと受け継がれました。同年に勃発した日露戦争(1904〜1905年)では、現役兵や後備役(予備軍)となった元屯田兵たちが第7師団に招集され、各地の戦線で重要な役割を果たしました。
オホーツク地方の屯田兵
オホーツク地方への屯田兵制度の導入は、同制度の終盤にあたる1897年(明治30年)5月のことです。野付牛(現・北見市)に597戸、湧別に399戸、両地域を合わせて計996戸、家族を含め約5,000人が「屯田兵第四大隊」の第一中隊から第五中隊として入植しました。各兵村の配置と規模は以下の通りです。
・第四大隊 第一中隊(下野付牛兵村):200戸
現在の北見市端野町地区
・第四大隊 第二中隊(中野付牛兵村):397戸(第三中隊と合わせて)
現在の北見市中心部・東相内地区
・第四大隊 第三中隊(上野付牛兵村)
現在の北見市東相内地区
・第四大隊 第四中隊(南湧別兵村):399戸(第五中隊と合わせて)
現在の湧別町(旧上湧別町地区)
・第四大隊 第五中隊(北湧別兵村)
現在の湧別町地区
屯田兵第四大隊とラッパ
オホーツク地域に入地した屯田兵第四大隊には、喇叭と小太鼓が装備されていました。これらは、指揮官の命令や号令を部隊全体に伝達する通信手段としてだけでなく、隊員の生活リズムの統制や士気の鼓舞という重要な役割を担っていました。

湧別町ふるさと館JRY(屯田歴史館)には、明治35年の行軍の模様を捉えた「屯田兵歩兵第四大隊 道東一州の行軍」という大きな写真が掲示されています。その写真を見ると、隊列のやや後方に位置する兵士の腰元に、ラッパのベル(朝顔状に開いた開口部)を確認することができます。また、太鼓とラッパが部隊の先頭近くに配置されていることからも、これらが軍隊の統制に欠かせない重要な存在だったことがうかがえます。
ラッパの音で営まれる屯田兵の生活
屯田兵の一日は、厳格な時間管理のもとに置かれていました。起床時刻は夏季(4〜9月)が午前4時、冬季(10月〜翌3月)が午前5時と定められていました。
兵務訓練や開拓作業の時間も季節によって異なり、夏季は午前6時から午後6時まで、冬季は午前7時から午後5時までとされ、正午から午後1時までの1時間は昼食休憩にあてられていました。
このように、起床から点呼、就業、昼食、そして終業にいたるまで、生活のすべての節目がラッパの合図によって一斉に営まれていたのです。
【参考資料】
・屯田郷土資料館 ・屯田兵制度 ・江別の屯田兵
・北海道開拓倶楽部 ・西野神社 ・旭川兵村記念館
ラッパ手の定員
オホーツクの屯田兵に関するラッパ手の具体的な記録は確認できていませんが、第三大隊第三中隊(旭川市東旭川町下兵村)の編制表から推測することができます。

『新旭川市史』第7巻・資料2によれば、第三大隊第三中隊の喇叭手の定員は4名でした。このことから、オホーツクの屯田兵各中隊にも、それぞれ4名程度のラッパ手が配属されていた可能性が高いと考えられます。
毎日のラッパ合図
屯田兵とその家族の一日は、厳格な時間管理のもとに置かれ、生活のすべての節目がラッパの合図 によって一斉に営まれていました。
《注 1》『陸海軍喇叭譜』厚生堂1897年(明治30年)発行
起床 ── 1日の始まり
夏季(4〜9月)は午前4時、冬季(10月〜翌3月)は午前5時に、起床ラッパが毎朝屯田兵村に鳴り響いていました。

主婦たちはこの合図の30分ほど前には起きて朝食と弁当の支度をしなければならず、幼い子どもを抱える家庭の苦労は並大抵のものではなかったといいます。
点呼 ── 家族全員の健康確認
起床の1時間後、週番士官(不在時は週番下士)が点呼にやってきました。住民は各自の兵屋の前に家族全員で整列し、戸主である屯田兵が健康状態を報告し、士官がそれを直接確認しました。病欠者がいれば容態を聞き取り、医官へ報告するのも士官の重要な任務でした。

掛レ ── 事業開始(午前の部)
夏季は午前6時、冬季は午前7時の課業開始のラッパによって、訓練や作業を開始します。屯田兵は中隊本部前に集合して軍事訓練などに従事し、家族は下士の指揮のもと、それぞれの開拓現場へ向かい作業が始まります。

休憩 ── ひとやすみ
作業や訓練の合間に取る休憩の合図です。1時間ごとに10分間の休憩が取られました。その場での小休止には128号、完全な休憩には127号が吹鳴されました。


昼休憩 ── 束の間の休息
正午になると、127号(休憩)、129号(解散)、91号(食事)のラッパが連続して鳴り、昼食時間が一斉に知らされました。

「解散」は午前の仕事を切り上げる合図です。

掛レ ── 事業再開(午後の部)
昼食の1時間を挟み、午後の作業が開始されます。午前同様、1時間ごとに10分間の休憩を挟みながら、黙々と作業を続けました。
終業・帰営 ── 苛烈な日課の終わり
夏季は午後6時、冬季は午後5時に作業を切り上げる合図が鳴り、続いて散らばって作業していた兵士たちを集合・整列させるラッパが響き、我が家へ帰るよう指示が出されました。

「故へ」は、散らばって作業していた兵士たちを集合・整列させる合図です。

「帰営」は、兵屋に帰りなさいと指示を出すラッパ信号です。
さらに、毎週土曜日には家族全員が家の前に並び、武器や農具などの検閲を受ける義務も課されていました。
兵員である戸主は、移住後およそ半年間にわたり毎日の訓練を受け、その後も月3回の訓練や他兵村との集合演習など軍務に追われました。そのため、本来担うべき農務(開墾)は農業に不慣れな士族出身者が多かったことに加え、その多くを残された家族の労働力に頼らざるを得ず、開拓は容易には進みませんでした。
屯田兵とその家族は、軍務と開拓という二重の重い負担を背負いながら、幾多の苦労を重ねて北海道の大地を切り開いていったのです。
屯田兵のラッパ譜(大隊・兵科別)
屯田兵7337名とその家族は、北海道内37ヶ村に分かれて入植しました。その編成は歩兵4個大隊(34個中隊)を中心に、騎兵・砲兵・工兵隊で成り立っており、それぞれの部隊・兵科に固有のラッパ譜が用意されていました。
また、後年の増募を見据えてあらかじめ作られたものの、実際には編成されずに終わった未編成大隊(第五〜第十大隊)のラッパ譜も存在しています。このように、各大隊・兵科にはそれぞれ固有のラッパ譜が定められており、屯田兵制度の軍事的側面の厳格さをうかがうことができます。

《注 1》北海道屯田倶楽部による屯田兵村配置図。(二重丸は2兵村配置)
第一大隊
琴似(札幌市西区琴似・発寒)・山鼻(札幌市中央区・山鼻地区)・新琴似(札幌市北区新琴似)・篠路(札幌市北区屯田)・輪西(室蘭市輪西・中島町)・西秩父(秩父別町)・東秩父(秩父別町)・北一已(深川市一已町)・南一已(深川市一已町)・納内(深川市納内町)

第二大隊
江別(江別市)・野幌(江別市)・南滝川(滝川市)・北滝川(滝川市)・南江部乙(滝川市江部乙町)・北江部乙(滝川市江部乙町)

第三大隊
西永山(旭川市永山町)・東永山(旭川市永山町)・下旭川(旭川市東旭川町)・上旭川(旭川市東旭川町)・西当麻(当麻町)・東当麻(当麻町)・西剣淵(剣淵町)・北剣淵(剣淵町)・士別(士別市)

第四大隊
東和田(根室市)・西和田(根室市)・南太田(厚岸町太田地区)・北太田(厚岸町太田地区)・下野付牛(北見市端野町)・中野付牛(北見市)・上野付牛(北見市)・南湧別(湧別町上湧別)・北湧別(湧別町上湧別)

騎兵隊
美唄(美唄市)

砲兵隊
高志内(美唄市光珠内地区)

工兵隊
茶志内(美唄市茶志内地区)

第五大隊
1904年(明治37年)の屯田兵制度廃止にいたるまで、屯田歩兵第五大隊が実際に編成されることはありませんでした。しかし、将来的な編成を見据え、ラッパ譜はあらかじめ作成されていました。

第六~第十大隊
第六~第十大隊についても同様に、将来の増募を想定してラッパ譜が作成されていましたが、実際に編成されることはありませんでした。





屯田歩兵隊
1897年(明治30年)に厚生堂から発行された『陸海軍喇叭譜』には、屯田歩兵全体を表すラッパ譜が収録されています。

結び ── 大地に刻まれた「時の声」
オホーツクの厳しくも広大な地に入植した屯田兵とその家族の日常は、常にラッパの音とともにありました。夜明け前の静寂を破る起床ラッパ、家族全員が身を引き締めて整列した朝の点呼、そして過酷な訓練と果てしない開拓作業。終業のラッパが鳴り、ようやく我が家である兵屋へ戻るその瞬間まで、彼らの日々は軍隊としての厳格な規律に貫かれていました。
そのラッパは、単なる部隊統制のための号令ではありませんでした。まだ暗いうちから灯をともして食事を支度した主婦たちの営みを律し、不慣れな鍬(くわ)を振るい続けた家族の背中を押し、北の大地を切り開く歩みを支え続けた、まさに命の「時の声」だったのです。
厚生堂『陸海軍喇叭譜』に残された数々の旋律は、文字の記録だけでは見えてこない屯田兵たちの息づかいや暮らしの足跡を今に伝える、貴重な歴史の証人です。原生林に斧を入れ、泥にまみれながら挑んだオホーツクの開拓。その歩みは、力強い鍬の音だけでなく、遥か地平線へと響き渡るラッパの響きとともに始まったのでした。

HIRAIDE HISASHI
関連項目
【日本のラッパの起源と進化】シリーズ 1〜32
【日本のラッパの起源と進化】 - その1
― フランス軍事顧問団とギュティグの役割 ―
【日本のラッパの起源と進化】 - その2
― 二度来日したラッパ伍長ギュティグ ―
【日本のラッパの起源と進化】 - その3
― 喇叭譜号 全 (一般信号) ―
【日本のラッパの起源と進化】 - その4
― 喇叭譜号 全 (運動合図信号) ―
【日本のラッパの起源と進化】 - その5
― 喇叭譜号 全 (三重奏と部隊信号) ―
【日本のラッパの起源と進化】- その6
― 『英国歩兵練法』慶応2年の喇叭合圖 ―
【日本のラッパの起源と進化】- その7
― 『英国歩兵練法』とフェントン ―
【日本のラッパの起源と進化】- その7 - 2
― 『英国歩兵練法』とフェントン (改訂版) ―
【日本のラッパの起源と進化】- その8
― 『英国尾栓銃練兵新式』と『英国銃隊練法』 ―
【日本のラッパの起源と進化】- その9
― 『旭川と佐呂間でラッパ隊を聞く』 ―
【日本のラッパの起源と進化】- その10
― 『陸海軍喇叭譜 (1885)』その1 ―
【日本のラッパの起源と進化】- その11
― 『陸海軍喇叭譜 (1885)』その2 ―
【日本のラッパの起源と進化】- その12
― 『陸海軍喇叭譜 (1885)』その3 ―
【日本のラッパの起源と進化】- その13
― 『諸外国の「食事ラッパ譜」』 ―
【日本のラッパの起源と進化】- その14
― 『日本の「食事ラッパ譜」』 ―
【日本のラッパの起源と進化】- その15
― 『駆歩行進』 ―
【日本のラッパの起源と進化】- その16
― 『北海道のラッパ』 ―
【日本のラッパの起源と進化】- その17
― 『浜松まつりのラッパ』 ―
【日本のラッパの起源と進化】- その18
― 『おかえり祭りは二種類ラッパが交互に響く』 ―
【日本のラッパの起源と進化】- その19
― 『美川で最初に吹き鳴らされたラッパ譜』 ―
【日本のラッパの起源と進化】- その20
― 『音商標への登録』 ―
【日本のラッパの起源と進化】- その21
― 偕行文庫の『陸海軍喇叭譜』―
【日本のラッパの起源と進化】- その22
― 『イタリア・トリノの消灯ラッパ』―
【日本のラッパの起源と進化】- その22 【改訂版】
― 『夜空のトランペットのルーツ』―
【日本のラッパの起源と進化】- その23
― 『朝はラッパで始まる ― 起床ラッパ二百年の歴史 』―
【日本のラッパの起源と進化】- その24
― 『いまさらですが「らっぱ」って何ですか』―
【日本のラッパの起源と進化】- その25
― 『消えゆくラッパの響き ― 佐呂間消防団ラッパ隊の記録』―
【日本のラッパの起源と進化】- その26
― 『ながのってすごいぞ/御柱』―
【日本のラッパの起源と進化】- その27
― 『ながのってすごいぞ―消防:基礎編』―
【日本のラッパの起源と進化】- その28
― 『ながのってすごいぞ―消防:応用編』―
【日本のラッパの起源と進化】- その29
― 『戦後ラッパ譜の成立 ― 須摩洋朔と自衛隊音楽隊の出発』―
【日本のラッパの起源と進化】- その30
― 『現代音楽作曲家のラッパ譜 ― 黛敏郎と自衛隊儀礼音楽』―
【日本のラッパの起源と進化】- その31
― 平戸に響いたファンファーレ ― ザビエル来航とポルトガル人の歓迎
【日本のラッパの起源と進化】- その32
北海道の夜明けを告げた響き ── 屯田兵第四大隊とラッパ譜
【日本のラッパの起源と進化】- 番外編
― 『ビューグル』 ― 《BandLifeWorld版》
【日本のラッパの起源と進化】- 番外編
― 『ビューグル─音が伝えるもの、形が残すもの』 ―
【日本のラッパの起源と進化】- 番外編
― 『信号ラッパの旋律はどこへ向かったのか ─ 軍事・芸術・大衆文化の交差点』―
