本能寺の変1582 【信長という男】 2/5 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【信長という男】 2/5
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
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1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【信長という男】 2/5
信長とフロイスの交流は、永禄十二年1569に始まった。
以来、天正十年1582までの14年間、フロイスは、信長に関することを、様々な角度から、よく観察し、それを記録として、後世に残した。
当時の姿が、甦る。
目に見えるようである。
信長は、尾張の国の三分の二の主君なる殿(信秀)の第二子であった。
彼は天下を統治し始めた時には三十七歳くらいであったろう。
【参考までに】
信長は、天文三年1534の生れ。
したがって、
「天下を統治し始めた時」を、信長が「上洛した時期」だとすれば、
次のような年齢(数え)になる。
永禄十一年1568 三十五歳 上洛
〃 十二年1569 三十六歳 本國寺の変 フロイスとの出会い
〃 十三年1570 三十七歳 金ヶ崎の戦い 姉川合戦 志賀の陣
なお、「フロイスとの出会い」については、以下の史料を参照されたい。
【重史140】
①司祭が都に到着して三日を経、
④信長は、贈物を見た後、ビロードの帽子だけを受理した。
【重史141】
①信長は、建築作業に従事しており、
②濠橋の上で待った。
①信長は、中背・瘦せ型・快調な声の人だった。
ハキハキした、よく通る、聞き取りやすい声だった・・・・・。
「快調」=調子がいい声とは、どの様な声なのだろうか。
彼は、中くらいの背丈で、華奢な体軀であり、
髯は少なく、はなはだ声は快調で、
②信長は、典型的な戦国武将。
「力こそ正義」
信長は、軍事力の強化に、余念がなかった。
極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、
③信長は、誇り高い男。
そして、正義感が強い。
名誉心に富み、正義において厳格であった。
彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。
④信長には、人間らしい一面もあった。
「人の子である」、ということである。
太田牛一の『信長公記』にも、これに類する記述がある。
幾つかのことでは人間味と慈愛を示した。
【重史146】『日本史』
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