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#645[短編]琥珀色の間[31]──雨だれ・I

エンジンの音が遠ざかり、残響が残る。爽子の過去に触れ、決意を打ち明ける大翔。帰れない夜の行き先は──連載第36回。


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※ 連載ですが、どのお話からも読めます。


海からの夜風がほのかに塩気を帯び始めた。

大翔は腕に掛けたままのコートに視線を落とした。夜風に肩をすくめる爽子の背中が小さく見える。その肩に上着をかけること──ほんの数歩の距離が今の自分には遠く、コートの重みが指先にリアルに残っていた。

その沈黙を破ったのは、爽子の小さなため息だった。

「変でしょう?澪さんたちには内緒です」
「全然、変じゃないですよ。でも、音高って?」

「バイオリンをやっていたんです。でも本格的にやるのなら、まずはピアノをやりなさいって」爽子は寂しげに肩をすくめる。「どっちも好きだったけれど……レベルが全然違ったんです」

「好きなだけじゃ、ダメなんだなって」

爽子はゆっくりと大翔を振り返り、再び滑走路に目線を移した。

「弓が描く音の曲線、ペダルを開放した時の音の波。わたしはどちらにもうまく乗れなかったのね」

爽子の静かな呟きは、着陸したばかりの機体が残した、かすかな熱を孕んだ風にかき消されていく。

「音大は受けなかったけれど、ひょっとして、好きな方を選んでもよかったのかな……」

ターミナルの灯りが、爽子の瞳の奥で小さく滲み、その光は行き場を失ったように細かく震えていた。

「それより、ごめんなさい。わたし失礼なことを……」
「え?」
「お兄さんのこと……」爽子はストールの首元に手を添えた。
「あ、いや、大丈夫です」大翔は爽子の肩に目線を落とす。

「いまは兄貴のこと、忘れていました」
「ほんとうに……?」
「はい、本当に」大翔は迷いのない目で頷いた。

「ここに来れてよかったです」

大翔がそう言うと、ターミナルに接続したトンネルへ、血流のように乗客が流れていった。その、確かな方向性を持った流れを見つめているうちに、大翔の胸の奥で燻っていた熱が、ゆっくりと1つの場所に集まっていくようだった。

大翔は、ふっと小さく息を吐いた。滑走路を見つめたまま、風の音に負けないよう確かな重みで、静かな声で言った。

「俺、病院を継ごうと思います」

そう告げた大翔の喉の奥は、塩気を含んだ空気に、かすかにひりついていた。肺の奥まで夜の重たい空気を吸い込み、風のざわめきに負けまいと、言葉を一つひとつ静かに、重く声を置いた。

「経営は医者じゃなくてもできるけど……うちに来てくれる患者さんの場所を、だれかに渡したくないです」

「俺、医者になります」

風切り音に楯つくように放たれた彼の視線は、離陸して遠ざかる機体の尾灯と引き換えに、強くその場に張りついていた。

「俺の育った場所、みんなの場所を守りたいんです。俺のやりたいこと、つくりたい場所」

やがてエンジンの轟音が遠ざかり、ふたたび海風がゆったりと戻ってくる。

「素敵です。未来の後輩ですね、楽しみにしています」爽子はひと呼吸おいて、大翔に向けてそっと右手を差し出した。大翔は伏し目がちにかすかな笑みを浮かべ、爽子の手をそっと包むように応じた。

「いまの会社で、まだやりたいこともあるし」
そう言って大翔は、夜の重い空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「父さんとも話してみます」大翔はまだ誰にも見せたことのない、まだ線だけの未来図を、照れたように口にした。

「それがいいと思います。でも試験は本当に大変です。私で役に立つことがあれば言ってくださいね」
「ありがとうございます」

「それじゃ、本当にそろそろ帰ります。爽子さん、もう時間ですよね?」
「え?0時です、私の便」時計は21時近くなっていた。
「あれ、そうなんですか。澪さんが10時って」

「あ……それは私が起きないといけない時間です。アラームの。ラウンジで少し休もうと思って」
「はは、そうだったんですね。爽子さん、意外におっちょこちょいですね」
「ごめんなさい。ときどきやるんです。頭の中で考えていた言葉を、ポンって」
「ははは。爽子さん……天然って言われませんか?」
「あ、あります……でも大翔さんこそ。早とちりって言われませんか?」
爽子のバッグの、プラスチックのキーホルダーが小さく揺れた。
「うーん。俺は……ひよっこかな?」
爽子がキーホルダーに触れると、ひよこがチカチカと赤く点滅した。

「爽子さん。そのボールペン、もらってもいいですか」
大翔は爽子がバッグにしまった、おなじキャラクターのペンを指して言う。「これ?……はい、どうぞ」
「これで合格間違いなしです」
「ふふ、そうだといいです」

「このあと、澪さんの所へ行かれますか?」
「あ、はい。お礼も言いたいし」
「澪さんにも心配かけてしまいましたね。よろしくお伝えくださいね」
「はい。爽子さんも気をつけて」

大翔がそう言うと、微笑み合う2人の影が街灯の下で静かに重なった。その穏やかな余韻を急かすように、生暖かい湿り気を帯びた風が、不意に二人の足元をすり抜けていった。

いつの間にか厚い雲が星を覆い尽くしていた。
最初の大きな一滴が、アスファルトに黒い染みを作る。

2人は慌てて空港ビルへ引き返した。

ガラス越しに振り返ると、雨に濡れた暗闇のなかに、
無数の光が淡くにじんでいた。

<了, 約 2,000 字>


作者より

こんばんは、久藤あかりです。
先週から小説を一気に書き進めています。
noteを投稿し終えたあとは急にお腹が減ります🐟️

さて。近頃は、みなさんの読むペースを横において、重いエピソードも続き、心苦しく思っています。散文詩やイラスト記事、私設企画やイベントなど、気になる行事もたくさんあります。休み休み、最後までおつき合いいただけましたらうれしいです。

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久藤 あかり | はじめまして! スキ、コメントが1番うれしいです。私の記事を元にあなたの記事を書いてもらうのも大歓迎!心が動く言葉はありましたか?ご感想お待ちしています😊