#645[短編]琥珀色の間[31]──雨だれ・I
エンジンの音が遠ざかり、残響が残る。爽子の過去に触れ、決意を打ち明ける大翔。帰れない夜の行き先は──連載第36回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、11話、12話、13話、14話、15話、16話、17話-I、17話-II、18話-I、18話-II、19話、20話-I、20話-II、21話、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
海からの夜風がほのかに塩気を帯び始めた。
大翔は腕に掛けたままのコートに視線を落とした。夜風に肩をすくめる爽子の背中が小さく見える。その肩に上着をかけること──ほんの数歩の距離が今の自分には遠く、コートの重みが指先にリアルに残っていた。
その沈黙を破ったのは、爽子の小さなため息だった。
「変でしょう?澪さんたちには内緒です」
「全然、変じゃないですよ。でも、音高って?」
「バイオリンをやっていたんです。でも本格的にやるのなら、まずはピアノをやりなさいって」爽子は寂しげに肩をすくめる。「どっちも好きだったけれど……レベルが全然違ったんです」
「好きなだけじゃ、ダメなんだなって」
爽子はゆっくりと大翔を振り返り、再び滑走路に目線を移した。
「弓が描く音の曲線、ペダルを開放した時の音の波。わたしはどちらにもうまく乗れなかったのね」
爽子の静かな呟きは、着陸したばかりの機体が残した、かすかな熱を孕んだ風にかき消されていく。
「音大は受けなかったけれど、ひょっとして、好きな方を選んでもよかったのかな……」
ターミナルの灯りが、爽子の瞳の奥で小さく滲み、その光は行き場を失ったように細かく震えていた。
◇
「それより、ごめんなさい。わたし失礼なことを……」
「え?」
「お兄さんのこと……」爽子はストールの首元に手を添えた。
「あ、いや、大丈夫です」大翔は爽子の肩に目線を落とす。
「いまは兄貴のこと、忘れていました」
「ほんとうに……?」
「はい、本当に」大翔は迷いのない目で頷いた。
「ここに来れてよかったです」
大翔がそう言うと、ターミナルに接続したトンネルへ、血流のように乗客が流れていった。その、確かな方向性を持った流れを見つめているうちに、大翔の胸の奥で燻っていた熱が、ゆっくりと1つの場所に集まっていくようだった。
大翔は、ふっと小さく息を吐いた。滑走路を見つめたまま、風の音に負けないよう確かな重みで、静かな声で言った。
「俺、病院を継ごうと思います」
そう告げた大翔の喉の奥は、塩気を含んだ空気に、かすかにひりついていた。肺の奥まで夜の重たい空気を吸い込み、風のざわめきに負けまいと、言葉を一つひとつ静かに、重く声を置いた。
「経営は医者じゃなくてもできるけど……うちに来てくれる患者さんの場所を、だれかに渡したくないです」
「俺、医者になります」
風切り音に楯つくように放たれた彼の視線は、離陸して遠ざかる機体の尾灯と引き換えに、強くその場に張りついていた。
「俺の育った場所、みんなの場所を守りたいんです。俺のやりたいこと、つくりたい場所」
やがてエンジンの轟音が遠ざかり、ふたたび海風がゆったりと戻ってくる。
「素敵です。未来の後輩ですね、楽しみにしています」爽子はひと呼吸おいて、大翔に向けてそっと右手を差し出した。大翔は伏し目がちにかすかな笑みを浮かべ、爽子の手をそっと包むように応じた。
「いまの会社で、まだやりたいこともあるし」
そう言って大翔は、夜の重い空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「父さんとも話してみます」大翔はまだ誰にも見せたことのない、まだ線だけの未来図を、照れたように口にした。
「それがいいと思います。でも試験は本当に大変です。私で役に立つことがあれば言ってくださいね」
「ありがとうございます」
◇
「それじゃ、本当にそろそろ帰ります。爽子さん、もう時間ですよね?」
「え?0時です、私の便」時計は21時近くなっていた。
「あれ、そうなんですか。澪さんが10時って」
「あ……それは私が起きないといけない時間です。アラームの。ラウンジで少し休もうと思って」
「はは、そうだったんですね。爽子さん、意外におっちょこちょいですね」
「ごめんなさい。ときどきやるんです。頭の中で考えていた言葉を、ポンって」
「ははは。爽子さん……天然って言われませんか?」
「あ、あります……でも大翔さんこそ。早とちりって言われませんか?」
爽子のバッグの、プラスチックのキーホルダーが小さく揺れた。
「うーん。俺は……ひよっこかな?」
爽子がキーホルダーに触れると、ひよこがチカチカと赤く点滅した。
◇
「爽子さん。そのボールペン、もらってもいいですか」
大翔は爽子がバッグにしまった、おなじキャラクターのペンを指して言う。「これ?……はい、どうぞ」
「これで合格間違いなしです」
「ふふ、そうだといいです」
「このあと、澪さんの所へ行かれますか?」
「あ、はい。お礼も言いたいし」
「澪さんにも心配かけてしまいましたね。よろしくお伝えくださいね」
「はい。爽子さんも気をつけて」
大翔がそう言うと、微笑み合う2人の影が街灯の下で静かに重なった。その穏やかな余韻を急かすように、生暖かい湿り気を帯びた風が、不意に二人の足元をすり抜けていった。
いつの間にか厚い雲が星を覆い尽くしていた。
最初の大きな一滴が、アスファルトに黒い染みを作る。
2人は慌てて空港ビルへ引き返した。
ガラス越しに振り返ると、雨に濡れた暗闇のなかに、
無数の光が淡くにじんでいた。
<了, 約 2,000 字>
作者より
こんばんは、久藤あかりです。
先週から小説を一気に書き進めています。
noteを投稿し終えたあとは急にお腹が減ります🐟️
さて。近頃は、みなさんの読むペースを横において、重いエピソードも続き、心苦しく思っています。散文詩やイラスト記事、私設企画やイベントなど、気になる行事もたくさんあります。休み休み、最後までおつき合いいただけましたらうれしいです。

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