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現代語訳黄表紙~江戸のマンガ絵本の歴史

 江戸時代後期に、ぱっと出現し、ぱっと消えていった、絵と文が一体となった、まるでマンガの黄表紙きびょうし。かつての日本には、こんな作品があった。
 日本のマンガのはじまりは鳥獣ちょうじゅう戯画ぎが(12~13世紀)だといわれるが、これは絵巻物で絵だけだ。絵だけの一コママンガのようなものだ。それに対して黄表紙は、絵と文、そしてセリフまである。まさにこれが現代のマンガ、コミック、アニメの源流だろう。
 黄表紙に慣れ親しんだ日本人の感性があったからこそ、現在のマンガ文化が生まれた。
 黄表紙を多くの人に知ってほしい。黄表紙がどんなものか知ってほしい。私は何かにとりつかれたかのように黄表紙の現代語訳を多く紹介してきたが、だんだんネタ切れとなったので、このへんで今までに紹介した作品を時代別にまとめておこうと思う。
 
 時代別といったが、時代を超えた作者が山東京伝さんとうきょうでん(1761~1816)だろう。京伝は江戸時代を代表する大衆小説家(当時の作品は戯作げさくと呼ぶ)である。彼だけ別格で、京伝としてまとめてみる。

 


  

山東京伝の黄表紙


1782年(天明2)
 京伝21歳で、当時の文壇ぶんだん大御所おおごしょ太田おおた南畝なんぽに絶賛された出世作、

上記の原本紹介は、

 

1784年(天明4)

上記の原本紹介は、

 

1785年(天明5)
 山東京伝さんとうきょうでんの代表作というより、黄表紙全体の代表作がこちら、

上記の原本紹介は、

 

1786年(天明6)

 

1788年(天明8)

上記の原本紹介は、

 

1789年(寛政元)

 この年「黒白水鏡」(後で紹介)の挿絵さしえを描いたことで罰金刑となる。 


1790年(寛政2) 

上記の原本紹介は、

 この年、30歳を前に遊女菊園きくぞのを妻に迎える。 


1791年(寛政3) 

 この年、洒落本しゃれぼん3作筆禍ひっか手鎖てぐさり50日となる。ちなみに出版元の蔦屋つたや重三郎じゅうざぶろう身上しんじょう半減はんげんの処分。妻の菊園病死。ふんだりけったりの年。 


1794(寛政6)年 

 

1801年(享和元)

 前年、遊女玉の井たまのい百合ゆり)を後妻に迎える。

 

1804年(文化元) 

 

 黄表紙がすたれて合巻ごうかんの時代になり、京伝の描いた合巻がこちら、
1813年(文化10)

 
ここまでが、京伝の作品。



京伝以外の黄表紙


 その他の、京伝以外の作者の作品を以下に紹介する。
中には浮世絵師北尾きたお政演まさのぶとして挿絵さしえを描いている京伝の作品もある。 

 

1775年(安永4)
 黄表紙の始まりといわれるのが恋川春町こいかわはるまち(1744~1789)の「金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ」。ここから黄表紙がはじまる。

 

1776年(安永5)

 

1777年(安永6)

 

1778年(安永7)

 

1779年(安永8)

 

1780年(安永9)


 1781年(天明元) 

 

1783年(天明3)

 

1784年(天明4)

 

1785年(天明5)

 

1786年(天明6)

 

1787年(天明7)

 

1788年(天明8)

 

1789年(寛政元)

 寛政の改革で黄表紙が規制されたためか、恋川春町こと倉橋くらはし寿平じゅへいがこの年変死する。同じく武士であった朋誠堂ほうせいどう喜三二きさんじ戯作げさくの筆を絶つ。

 

1793年(寛政5)

 

1802年(享和2)

 ここで十返舎じっぺんしゃ一九いっくなどの有名な作家名が出てくるが、黄表紙がすたれていく時代なので、作家は滑稽本こっけいぼんなど他のジャンルで活躍することとなる。

 こうして黄表紙きびょうしという特異なジャンルが日本から消えていくが、当時の人々を熱狂させたその流れは今のマンガ、コミック、ジャパンアニメに引き継がれているのだろう。 



タイトル画像は、山東京伝デザインの手ぬぐいの図案。おなじみの「江戸生えどうまれ艶気樺焼うわきのかばやき」の主人公艶二郎えんじろうを思わせる人物を描く。 


手拭合たなぐいあわせ」より模写

 


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