本能寺の変1582 【四国】 十 目次 251028 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【四国問題】 天正十年1582 目次 251028
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 251028
【四国問題】 天正十年1582
目次 251028
1月
0121 信長は、元親に、「土佐一国」のみとした。 【重史174】
2月
0201 木曾義昌が裏切った(武田→織田) 。 【重史046】
0203 信忠が甲斐へ出陣した。 【重史046】
0209 信長、出陣十一ヶ条。 【重史047】
3月
0305 信長、甲斐へ出陣。 【重史034】
0311 武田勝頼の最期。 【重史170】
0317 信長は、己の勢威の強大さに驚いた。 【重史018】
「路次険難、老足叶うべからざる儀に候」 【重史019】
4月
0421 信長、安土に凱旋。 【重史035】
0424 中国出陣は、「来る秋」のはずだった。 【重史036】
小早川隆景の軍勢が、近くの高山に着陣。
中国出陣の日は、近い。
光秀の心中や、如何に・・・・・。
5月
0507 信長は、三男信孝に四国への出陣を命じた。 【重史012】
信長は、信孝に、讃岐と阿波 二ヶ国を与えた。
土佐については、未定である。
間に合わねば、光秀の責任問題となる。
0511 信孝は、四国渡海の準備に入った。 【重史225】
信孝は、阿波・讃岐 二ヶ国の新たな国主となる。
信長は、未だ、土佐の国主(くにぬし)を決めていない。
元親を取り巻く状況は、悪化の一途を辿っていた。
元親は、土佐を失う可能性すらあった。
0515 徳川家康が、安土に到着した。 【重史226】
05** 「足蹴事件」1/2 【重史040】
「足蹴事件」2/2 【重史041】
05** 秀吉は、備中高松城を水攻めにしていた。 【重史227】
そこに、毛利の本軍が現れた。
信長は、光秀に出陣を命じた。
0517 光秀は、出陣支度のため坂本城に帰った。 【重史029】
0519 信長は、家康のために、能舞を興行した。 【重史228】
0520 信長は、家康に対し、最上級の誠意を示した。 【重史229】
0521 家康、上洛。 【重史230】
この時、家康とともに、信忠も上洛している。 【重史231】
信忠は、中国出陣を控えていた。 【重史232】
〃 長宗我部元親が、信長の命を受け入れた。 【重史042】
0526 光秀は、坂本から亀山城へ移った。 【重史030】
0527 信長は、一両日中に、上洛する。 【重史028】
信忠は、信長の上洛を待っていた。
〃 光秀は、戦勝を祈願するため愛宕山に参詣した。 【重史233】
0528 光秀は、愛宕山西坊にて連歌会を催した。 【重史234】
「あめが下知る」
「あめか下なる」 【重史005】
「あめかしたしる」 【重史032】
〃 家康が、大坂へ向かった。 【重史028】
信忠は、京に残った。
0529 信長が、上洛した。 【重史033】
従うのは、小姓衆のみ。
信長は、「油断」した。
⇒ 次へつづく
