【創作】題名のない物語 第1話 海路
【あらすじ】
東京の会社で勤務している木元は同じ会社の新入社員 西野からアプローチらしき行動を受けるけれど、もともと人付き合いが苦手なこと、将来的には故郷に帰ることを考えていることもあり、関係を深めるように踏み込むことができず恋までは届かない。
惹かれつつブレーキを踏み、迷いながら歩みを進める、不器用な二人のお話です。
第1話 海路
セイレーン、海の岩場に独り座り、歌うことで船乗りを惑わす精霊。
木元は場末のスナックでギリシャ神話のことを想うとは考えてもいなかったけれど、西野の歌声はあまりに魅惑的で、異世界へと誘うような空気に包まれていた。
聞き惚れていた数人の酔客に頭を下げると、歌い終えた西野が隣の席に戻ってくる。
「いかがでした」
いたずらっ子のような笑みで尋ねられ、薄い水割りを一口飲んでから応えた。
「語彙力が少なくて申し訳ないです。素敵だったという言葉しか出ません」
「良かった、安心した」
正面に向き直りビールを口元に寄せる。無意識に木元の視線が口元に向かう。慌てて視線をカラオケのリモコンに戻す。
「次の曲は何にしますか」
「一曲だけで十分、というか、いつも一曲だけ歌うことにしているのです」
(そういうものですか。西野さんがそういう流儀なのであればそれに従おう。親しい仲でも無いのに「もっと聞きたい」ということもできないだろう)
「木元さんは歌わないのですか」
「爺さんの遺言で、酒の席での歌は駄目なのです。『お前の歌は酒を不味くする』と言われています」
西野は何も言わずに頷くとまたビールを口にした。木元の持ちネタ「遺言ジョーク」は全く響かなかったようである。
「西野さんの歌はお金を取れるレベルでしたね」
「とても、とても」
謙遜はしているが、目尻が下がり嬉しそうな表情を見せる。
その後は他愛も無い会話が続いた。家族のこと、テレビドラマや最近読んだ本のこと。同じ会社で働いてはいるがこれまでは交流が無く、一つ一つの話が新鮮だった。今日はそれぞれが残業をしていたところ、同じような時間に終了し帰りのエレベーターで一緒になった流れから一緒に食事をとり、西野から「歌いたい」とのリクエストを受けて、スナックへと来た。
「今日は、素敵な歌が聴けて良かったです。ありがとうございました」
木元は目で「店を出ましょう」と伝え、席を立った。
「お会計は」
「済ませてあります。歌のお礼にここは出させてください」
外に出ると十二月の寒気が頬を叩いた。西野が少し遅れて店から出てきたことを確認して有楽町駅に向かって足を踏み出す。お互いに無言のまま駅に着いたところで、西野が頭を下げる。
「今日は御馳走様でした、また会社で」
木元は笑顔で軽く右手を上げて、別れの挨拶とした。
そのまま踵を返す。木元の住む古い賃貸マンションまでは歩いて帰れる距離である。連絡先は交換していない、次の約束もしていない。
一~ニ年後に今の会社を退職し故郷に帰るつもりの木元は、東京で親しい友人や恋人を作るつもりはなかった。
(生き延びた船乗りよりも、セイレーンの歌に溺れた船乗りの方が幸福だったのかな)
ブルブルと顔を横に振り、暗い雑踏を自宅に向かい歩きだした。繁華街を抜けて自宅に近づくと、遠くから届く潮の香りが鼻を刺激した。
(第1話 おわり)
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