#646[短編]琥珀色の間[32]──雨だれ・II
空港の外は雨が一層強まり、ガラス越しの光がにじむ。大翔が告げた行先は、父のいる場所だった。連載第37回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、11話、12話、13話、14話、15話、16話、17話-I、17話-II、18話-I、18話-II、19話、20話-I、20話-II、21話、22話、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
大翔は濡れた肩をすくめ、空港ビルへ足を戻した。肩に落ちた雨粒をはらう。追いかけてきた爽子は張りついた前髪を、小指でそっと後ろへ払った。ストールに落ちた水滴が、指先で冷たく跳ねる。
ガラス越しの光が、雨に溶けてゆらいだ。
水滴のにじんだ輪郭が、ゆっくりと円を描く。
「じゃあ、ここで」 大翔の言葉が爽子の肩にそっと落ちる。「はい、また」 小さく振られた手が、雨の匂いを残したままラウンジの奥へ消えていく。
◇
振り返れば、エスカレーターの向こうに爽子の姿がまだ見えるはずだった。大翔はただゆっくりと、下へ運ばれていく自分の靴の先を見つめていた。
大翔はステップを降り始め、下降する速度に抗うように、金属の段を一歩、また一歩と、足取りが勝手に加速した。爽子から遠ざかる自分を、自分の歩幅で歩き出す。
到着ロビーへもぐった瞬間、見知らぬ誰かの歓声が耳を刺す。帰りを待ちわびる人々の、温かく、どこか浮き足立った幸福の波に、呼吸を浅くする。
大翔はあふれる光から身を隠すようにして空港ビルをあとにし、タクシーを止めた。ロビーのざわめきが背中から離れていく。タクシーのドアが閉まった瞬間、雨の音だけが世界を満たした。
電車の人混みにこの瞬間をかき消されるよりも、
たった今の揺れを、雨音の中にそっと隔てておきたかった。
運転手に方角を告げ、ドアが閉まると低いモーター音が通奏低音を奏で始めた。どこへ向かうかは、もう決まっていた。
◇
大翔はシートに深く背を預け、流れる街の灯りをみつめる。いつの間にか強くなった雨が、窓ガラスに不規則な輪をつくり、あたりの風景を優しくにじませていく。
「ふぅ……」
小さく息を吐き、大翔は冷たい窓ガラスに額を寄せて目線を上げた。 雨が天井を打つ音が、車内に心地よい静けさを広げていった。
ガラスを伝って後ろへ流れていく水滴を見つめているうちに、夜の底に広がるこわばりが、少しずつほぐれていくようだった。
大翔は通勤バッグに差し込んだ爽子のボールペンを手に取った。つやのあるプラスチックの丸い感触が、幼い頃に口にしたあめ玉のような懐かしさを胸に広げる。
雨はさらに強まり、横殴りの水滴が車の天井を激しく叩きつけ始めた。 歪んでいく夜の街の光を、ワイパーが規則正しく拭い去っていく。
せわしない往復の音を聴いているうちに、大翔の意識は激しい雨の音に包まれていた場所──実家の病院へと、ゆっくりと引き戻されていった。
◇
とめどない水滴が窓に小さな川をつくる。その流れを見つめているうちに、心の奥で乾いて固まっていた何かが、境界線を失って溶け出していくようだった。
「運転手さん、すみません」
大翔はルームミラーに映る運転手の目に視線を合わせた。
「欅坂総合病院までお願いします」
口にしたのは、いつの間にか日常の視界から外れていた、遠ざけたつもりのない実家の病院だった。受験や時間に追われ、ただ時間だけが静かに間に入っていた。
タクシーの閉じた空間のなかで、水を弾く音だけが、大翔の心音のように規則正しく響いていた。
あの日の帰り道は晴れていた。けれど、もうひとつの家とも言える、病院へ向かう足取りだけは、今日と同じように地面を掴み損ねていた。
窓ガラスを這い降りる雨のすじが、外の景色をゆっくりと歪めていく。
ふいに、懐かしい白いコンクリートの壁が、記憶の底から浮かんだ。
◇
病院の赤い門灯が見え始めた。
深夜の救急外来の入口はひっそりと静まり返っていた。
「ここで降ろしてください」
自分の声が、他人のもののように響く。
大翔は傘も差さず、ただ兄の最後の羽ばたきを記憶しているその泥濘へと、足を踏み出した。
ドアが開いた瞬間、雨の匂いに押されるようにして、心が遅れてついてくる。
父のいる場所、兄の鼓動をたしかめた、この場所へ──
<了, 約 1,500 字>
作者より・改稿のお知らせ
みなさん、こんにちは。
久藤あかりです。
今回のエピソードは下記の通り大幅に変更を加えましたことをお知らせいたします。
できとご中心→雨と身体の動きに全文を改稿
「雨」がつなげる「場所」の動線を調整
心情が説明的になっていた箇所を身体と感覚に変更
抽象から具体へ、できごとを光や音の描写に変更しました。
(行動や会話、動きのあるシーンの描写と整理がとっても苦手です、本当にごめんなさい💦)
最終更新: 2026/5/30 20:24

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