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編集長の恋 1

あらすじ
伊藤俊郎(いとうとしお)は、六四歳で出版社の編集長。ある日娘の花江(はなえ)が、結婚をすると言いだした。相手は元プロのベーシスト。その田辺博章(たなべひろあき)との話の流れで、俊郎は若い頃にサックスをやっていたと嘘をついてしまう。数日後、俊郎のもとに持ち込み原稿を持った、元サックスプロの後藤蓮(ごとうれん)が現れる。俊郎は後藤にサックスを習う事にする。俊郎には、どうしてもサックスで演奏したい四十六年前の思い出の曲〈イパネマの娘〉があった。俊郎が大学一年の頃の大学のアイドル軽音楽部の綾瀬日名子(あやせひなこ)との恋と娘の結婚にまつわる現在の恋を通し、俊郎は本当に大切なものは何かを知る事になる。

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「どうしたんだ、いったい」
携帯に掛かってきた電話を一旦切り、伊藤俊郎は立ちあがった。運悪く周りには入口近くに陣取っている山本しかいない。しかたなく山本にタバコを見せながら編集部を出た。案の定、山本は表情を変えず一瞥しただけだった。
そのまま一階の喫煙スペースに小走りで向かった。
山本を見る度に、『山椒魚』という小説を思い出す。頭が岩に挟まって穴から出られない愚鈍な両生類。いやいや、今は山本のことなどどうでもよい。
入口脇の喫煙スペースは、いつものように蒸気機関車よろしく煙を吐き出す男たちでいっぱいだった。
ここは鉄道の操車場近くで育った俊郎に、子供の頃の記憶を思いおこさせる。ほとんど同じ顔触れが、同じ場所に陣取り灰皿を囲み盛んに煙をはいている。社内でも、ここでしか会わない奴も多い。毎日顔を突き合わせている割には、あまり話をしたこともない。
いつもより気持ち灰皿から離れた。二十歳の頃から手放せないショートホープに火をつけ、妻の啓子に折り返した。
「結婚するって言っています。この間の人と」
「お前馬鹿か仕事中に、なんかあったのかと思うだろう」
「だって花江の大切なことですよ。今日くらいは早く帰って来て、話を聞いてあげられないんですか」
「そんな急には無理だろが」
啓子の声が珍しく裏返っている。
結婚して三十年経っているが、いまだに啓子の感情の動きが掴めなかった。啓子にはそういったものがすっぽり欠落しているとさえ思える時があった。
出会った時も、結婚を決めた時も、そしてこの三十年間、ずっと啓子は啓子のまま変わらぬ日々を過ごしている様に見える。
一人娘の花江が生まれる時も、おろおろと心配ばかりしていたのは自分の方で、啓子はやや焦点の合わない目でどっしりと、馬鹿なのか無神経なのか落ち着いたものだった。よくこんなヒトデのような女とずっと一緒にいるものだと、自分でも思う。
その啓子が初めてと言ってよいほど苛立っている様子が、携帯の小さなスピーカーを通してもはっきりと伝わってきた。
「あの野郎か」
結局、啓子の剣幕に押され、できるだけ早くに帰るようにする、と言わされた。電話を切ってから男のことを思いだしていた。
花江が二週間くらい前の日曜の夜、突然その男を連れてきた。名前は覚えていないが、チャラチャラした格好をして、今どきの頭が小さく首の長いキリンみたいなやつらの一人だ。
「あの馬鹿、花江、だまされてるな」
還暦を四年すぎ、俗世の脂やら汚れやらが大分落ち、最近の俊郎は自分でも驚くくらいに直感が冴えてくるのを感じていた。一人娘があんな男と結婚? 考えたくもない話だった。
 
編集部に戻ると、山椒魚の山本が露骨に腕時計を見るしぐさをした。隣には河童の河田もいる。
あほども。ただ椅子に座っていれば、良い仕事が出来るとでも思っていやがる。
心の中で毒づきながらデスクに戻ると、室田和也が新しい企画書を手にやってきた。室田はこの中堅どころの出版社、赤富士書房で、数少ない気の合う奴だ。
仕事帰りに飲みに行く時は勿論、休みには一緒にゴルフに行ったり、家に呼んで飯を食ったりしている。   
嫌味のない男で、俊郎に対して遠慮をするところがない。それだけに家族の一員のような親しみを感じていた。いわば弟分みたいなものだ。
多分今年で四十歳になるのにまだ独身。入口近くの馬鹿どもに較べるとはるかに仕事は出来る。襟付きならばというゆるい服装規定の赤富士書房だからか、ゴルフウェアしか見たことが無いが、容姿はそこそこまともな方なのに、女の話だけは一向に聞こえてこない。まさか男が好きという事はないだろうが。
「俊さんどうしたんですか、深刻な顔して」
「そうか、そんな深刻な顔してる?」
「ええ、フンづまりのトドみたいな顔してますよ」
「てめっ」
室田とは終始この調子だった。
「ちょっとお疲れ気味なんじゃないですか。最近ゴルフ行ってます? 全然お誘いがないんですけど」
「ああ勿論だよ。おれの背中なんか、もうむっちゃんには見えないよ」
「ずりーなー、本当ですか」
「んなわけねえだろ、これ見ろよ」
机の上で崩れそうになっている原稿や企画書の束を指差した。それでも全盛期はこの紙の山が、本当に崩れて足元にも積み上げてあった。それから比べると、今は寂しいものである。
室田が手に持っていた企画書を、そっと山の上に乗せた。
「ここんとこ、珍しく忙しいですね」
「ああ忙しいだけだな」       
「たまにはゴルフいきたいっすね」
「来週あたりでも、久しぶりに行くか」
「いいですね。でもおれ、全然スコアがのびないんですよ。才能ないんですかね」
 室田がグリップを握る真似を見せる。
「そりゃないに決まっているけどな。でもゴルフは練習しかないんだよ。むっちゃんは全然練習してないだろ。だからダメなんだよ」
「やっぱ、そうですかね」
「そうだよ。おれの学生時代の友達でゴルフ部のやつの話をしたっけか。もともとは野球をやっていたんだけどな、うちの大学へ来て、ゴルフ部に入ったんだよな。プロ目指すって言ってね」
「なるほどジャンボ尾崎ってわけですね。すごい飛びそうですね」
「野球やってたやつは、やっぱり飛ぶんだよな。でも必ずどスライスなんだよ。だからなおさらタチが悪い。バットの振りから行くとこうなる、でもゴルフはこうだろ」
立ち上がって腕を振った。
「ああそうですね」
室田がデスクから落ちた企画書を拾いながら頷いた。
「こうやりゃ、真っ直ぐ行くんだけど、野球をやってたやつはなかなか出来ないんだよ。長年の習慣でな、こう」
「飛んじゃうから余計ね」
「そうなんだよ。それでそいつは毎日毎日、体育館の裏手のネットで、取り憑かれた様に打っているんだよ。まっすぐになーれ、まっすぐになーれってな。周りは学生運動だ、学校閉鎖だ、ヴェトナム戦争だって言ってる時にな」
「ものものしい時代だったんすね」
「そう、そういう時代だ」
俊郎自身は政治に無関心だったが、当時の大学を覆っていた暗く重い空気や学生らの姿を、今も忘れる事は無かった。
「おれ、今度ドライバー替えようかな」
「無駄だよ。腕は売ってないからな。でも最近ゴルフもなぁ」
「あ、やっぱりそうですか。忙しいと言っても、俊さんなんとか時間をつくって行ってましたものね」
仕事の忙しさは関係なかった。家のある相模原近辺はもちろん、千葉だ御殿場だと毎週のように行っていたゴルフも、最近はご無沙汰していた。
「でも俊さん、ゴルフに飽きちゃったら何をしましょうか」
「何でもあるさ。おれは無趣味なむっちゃんとは違うんだよ」
「あ、おれはこう見えても結構趣味はいっぱいあるんですよ」
「はいはい」
「本当ですって。カメラの腕は俊さんもご存じでしょ。昔フィルムメーカーの賞取った事もあるし。海釣り。家が湘南だからガキの頃から親父に連れられて行っていたし。将棋。これは今でも駅前にある倶楽部にたまに顔出してます。やぐらのむっちゃんって言ったら結構地元では有名ですよ。……あと実は一番得意なのはベースかな」
「ベース?」
「そう、これも中学の頃からやってるからブルースやロックだったらだいたい弾けますよ」
 室田は弦を弾く真似をして、鼻をふくらませた。
「いやに自信あるね。もしかしてバンドとかで」
「そらあもう若い頃は大変でした。キャーキャー言って寄ってくる娘っ子をちぎっては投げちぎっては投げ」
「なんだそりゃ」
「俊さんは、なんか楽器をやってなかったんですか。我々の時代はギターとかみんな結構やってましたよ」
「おう当たり前だよ……まあ、おれも少しは……な」
「本当ですか? 初めて聞いたな、何やってたんですか、やっぱりギター?」
「サ、サックスだよ」
「サックスぅ、ははは。かっこいいですね俊さん」
「あっ、てめえ信じてねえな」
「ごおおほっ、ごほっ」
端っこのデスクから耳障りな音が割り込んできた。山本だ。
なんだよ、文句があるのなら直接言えよ。室田に目配せをした。
「じゃあ室田君、その企画はそれで行こう。営業にも根回ししとくようにね」
「はーい、よろしくです」
 
またやってしまった。室田が相手だとつい子供のようになってしまう。はずみで、サックスをやっていた、なんて口にしてしまった。どうせ後から散々ひやかされるのだ。
それにしても俊郎は、自分の口からサックスと言う言葉が出てきて自分でも驚いていた。遠い学生時代の思い出。忘れたはずだった。それでもやはり自分はあの頃を忘れられないのだな、とあらためて思い知らされたようだった。
同年代の多くの者が、学生時代伸び放題伸ばしていた髪を切りひげを剃り、レールのままに就職した。そして日々仕事に追われる内に、本当に仕事が好きと思いこんだ。もはや仕事が趣味という笑えない世代。仕事をとりあげられれば何も残らない。
定年後も何らかの仕事に関われる者は、すごく幸せだと思う。自分のように中堅出版社の編集長なんて、つぶしがきかない職業の最たるものだ。
じゃあいっそのこと、働きづめだった人生におさらばして第二の人生を趣味に生きるか。カッコいいとは思う。人ごとならば。いざ自分がそうなった時に、その後の長い余生を飽きずに過ごす事の出来る趣味を持っているサラリーマンがどれくらいいるだろう。
仕事もオフもうまく使い分けているように見える室田のような世代が羨ましい。自分には何があるのか? ゴルフか? 何となく違うと思っている。じゃあ、何だ? まさか、ここでサックスなんだろうか。
最近テレビや雑誌などの、老後の第二の人生の楽しみ方、一生付き合う趣味などという特集ばかりが目に入るようになっていた。
俊郎が三十年勤続していた出版社が、前触れもなく倒産したのが十二年前だった。もうちょっとで取締役といわれていた頃で、残念でないと言えば嘘になる。それでも、そうなっていたらなっていたで、大変だったろう。
経営状態が悪いのは知っていたが、あまりにもあっけなかった。
本が売れないと言われて久しい世の中の情勢もあるのだろう。現金支給のボーナス袋が机の上に立った時代が懐かしかった。
その後小さな雑誌社を経て、今の赤富士書房に移ったのが二年前になる。得意のビジネス書の編集に携わっているが、まだこれといったヒットには恵まれていない。さすがに周りの目が気になり始めている。
あと二年で定年だ。新人の頃ならばいざ知らず、腕を買われてのポストだ。出版不況のせいにするのは誰にでもできる。このままでは終われない。
俊郎は、いつもチラチラとこちらに挑戦的な眼差しを送ってくる山本らを見ていた。

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