#648[短編]琥珀色の間[33]──霧の夜想曲
実家で今日の回想をする大翔は父と対面し、未来への思いを打ち明けた。連載第38回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、11話、12話、13話、14話、15話、16話、17話-I、17話-II、18話-I、18話-II、19話、20話-I、20話-II、21話、22話、23話、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
アスファルトに落ちた雨粒が、幾重ものスピログラフを描く。幾何学模様が生まれては消える雨の中、大翔はタクシーから走り出た。
父の背中の先にある未来を見たいと、大翔は思った。
救急外来の自動ドアが開く。奥から伝わる透明な空気の壁が、頬から雨の匂いをそっと拭い去り、大翔の濡れた肩を優しく押し返した。外の重い湿り気を拒むような緩やかな風が、胸の奥で何かが小さく軋ませる。
院長室の扉にIDカードをかざし、鍵の開く音が響いた。廊下の明かりを受けて歴代の院長の肖像──大翔の祖父たちの顔が浮かび上がる。
ダウンライトをつけ、応接室の隣の仮眠室に入ると、ミニキッチンと書斎、仮眠用のソファは昔のままだった。
大翔は部屋のブラインドを全開にした。街灯の周りに白く立ちこめる雨の白い煙が、やわらかく室内を照らす。上着をコート掛けに預けてソファに深く沈んだ。
◇
背中を大きく滑らせて、天井へ深く息を吐く。大翔の顔をスマホの画面が淡く照らす。『さっきはありがとうございました』爽子の画面の上で親指が泳いだ。
大翔は辿って来た道を思い返す。空港を離れたあとで、タクシーの車内に残した時間の残響──爽子が差し出した手の温度、自ら口にした決意、そのすべてが胸の奥でまだ脈を打つ。
大通りから中路地へ入り、並走する線路と踏切を過ぎた頃。その鼓動は別の色を帯びだした。
桜吹雪の日に聴きそびれた爽子の言葉が、いまも喉の奥に小さな棘のように引っかかっている。何かが皮膚に張りつくような、目に見えない未完の予感が、大翔を過去の淀みへと引き留めた。
大翔はそっと画面の光を消した。
自分をいま、彼女の荷物にしてはいけない。父に話すべきこともある。窓からの青白い光に爽子のボールペンをかざす。くるりと回して、再び胸ポケットに収めた。
大翔は明日に向けて息を整えているうちに、押し寄せる疲労が思考の輪郭をゆっくりと侵食していった。やがて大翔の呼吸は深く、規則正しくなり、暗い部屋のなかに静かな寝息が満ちていった──。
◇
ふいに、強烈な白い光が視界を射抜く。「大翔か」 声の主は父の直哉だった。シワが刻まれた緑色の手術着と、その上に無造作に羽織った白衣姿──少し前に会った時と何も変わりない様子に、大翔は安堵した。
「スマン、起こしたな」直哉は白衣をコートハンガーにおくと、洗面台にトレードマークの銀縁のメガネをおき、両手で前髪を押し上げた。
「急患?」大翔は眠気を帯びた声で咄嗟に立ち上がる。
「ああ。寝てていいぞ」直哉はデスクの肘かけ椅子に向かう。
「いや、いいよ」大翔は先回りして父の椅子に腰かけた。
「あ。おれの椅子」大翔はゆっくりと首を横に振ると、直哉は椅子を譲り、毛布をソファに放った。
「どうした?」直哉は、大翔がここに来るのは小学生以来だと言った。
「お父さん、ちょっと話せる?」父は大翔に頭を向けて、ソファに深く身を沈めた。
「ユウキのことなんだけど……」直哉は姿勢はそのままに、目線だけを上に向けた。
「……わかった、時間をつくろう。今日はもう休もう」父に続けて大翔はもうひとつだけ、と話を切り出す。
「あと俺、病院をたて直す」
単刀直入に大翔は言った。父はわずかに大翔に顔を向けた。
「……ん?お前、医者になるの?」
「んー、まずは科を半分にする」間髪入れずに父が割り込んだ。
「待った。お前、病院を潰す気か」直哉は頭を抱えて眉を顰めた。
「お前もコンサルと同じか……」直哉は失望を隠さずに大きく息を吐いた。
「地域の人を見捨てるわけにはいかない。うちはここで100年やっているんだ」直哉は強い口調で言い放つ。おれの代で潰すわけにはいかない、と。
「うん。患者さんは全部診る。だれも取りこぼさない」大翔は言い切る。
「どうやって」直哉は食いついた。
「まって、その前に。いまの会社で一級建築士を取る。それで、病院を建て直す」
「なんだ。そっち?」直哉は前のめりの体をソファに深く収め直した。
「もっと、色んな人が通える場所にする。例えば……院内学級をやりたい」
大翔は教員免許を取得していた。
「病院は体を休めるところだよ」直哉は大翔の意図を察しかねて、語気を強めた。
「甘いな」
父の言葉が胸に突き刺さる。
大翔は堪えて、さらに続けた。
「お父さん。みんな、お世話されたいんじゃないよ」
直哉は言葉を飲み込み、一度だけ肩で息をした。
「みんな、自分の人生を生きたいんだよ」
直哉は、言葉を探すように視線を宙にさまよわせた。
──お父さん、今日が未来だよ。
「だから……今日を生きる人の命を繋ぐために、
お父さんたちが守ってきたここを、 俺は未来へつなぎたいんだ」
そのために──
「俺、医者になるよ」
大翔はわずかに背もたれから身を乗り出した。
一拍置いて「明日話すね」と言い添えた。
「ああ」直哉は毛布で全身を覆い、毛布の端を握った。
「おやすみ」
大翔はブラインドを下ろし、スマホのフラッシュライトを仮眠室の扉に向けた。中へ入ると書棚と小さなデスク、簡易ベッドも昔のままだった。もう一度爽子からのメッセージを開き、父への言葉を探した。
<了, 約 1,900 字>
前回エピソードを改稿しました。
詳しくは、物語のあとがきまで📕

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