「平壌へ至る道」第1話

≪あらすじ≫
一九九三年。北朝鮮に娘を拉致された警官、同国に漁師の兄を拿捕された水産業者、日本への帰化を機にかつての同胞から全てを奪われた元朝鮮総連幹部の三人は、拉致被害者家族集会を通して知り合い、同国政権与党、朝鮮労働党の建物爆破を計画する。その過程で紹介された在日朝鮮人の鄭相慶という若者を工作員に仕立てあげ、北朝鮮へ密航させるための訓練を施すが、テロ行為は結局新たな憎しみの連鎖を生むだけと感じる鄭は、代わって金日成の銅像の鼻下にヒトラーを見立てたチョビ髭をイタズラ描きし、誰も肉体的に傷つけることのない復讐を提案する。
半年後、鄭は覚醒剤取引の船を利用し、北朝鮮へ密入国を果たす。

第1話

一九九三年十月 大阪

 男は布施駅近くの細い路地でタクシーを降りた。
 深夜二時十五分。周囲に人の気配はない。それでも自然と足早になり、金龍洙のアパートに着く頃には、皮ジャンパーの下に滲む汗を感じた。
 モルタル造りの二階、龍洙の部屋の鍵。ドアの下に並んだ植木鉢の、右から三番目。そこにはサボテンが植えてある。こんなトゲの塊の下に隠しよるとは誰も思わんやろ、そう龍洙が笑っていたことを覚えている。
 男はジャンパーのポケットからスキー用手袋を取り出して嵌め、サボテンを引っこ抜いた。植木鉢の底、泥にまみれた茶封筒の中から取り出した鍵を鍵穴に入れようとする刹那、ふと思い出した。
 郵便受けの下をまさぐってみる。
 そこにはガムテープの残骸しかなかった。

「人ん家に忍び込む時はな」
 記憶の中の金龍洙はいつも薄い笑顔を顔に貼りつかせている。郵便受けの下をまず探してみい、鍵をテープ留めしてる奴が多いんや。アホばっかしやで、この国は。
「そやから、ワシらもわざとアイツらをおちょくってやらんとな」
 そして龍洙は自分の郵便受けにも同じような措置を施した。世間の有象無象と違っているのはただ一点、それが部屋の鍵ではないということだけだった。
「アイツらがここに来て、同じように鍵を見つけて、何や龍洙もただの間抜けやなとか言いながら、いざ穴にぶっ挿そうとしたら全然合わへん、その時の連中の顔を想像してみい」
 その鍵が消えている。男は静かにドアノブを回した。扉を引いてみる。動かない。植木鉢から取り出した、「本物の」鍵を挿す。

 ドアを半分開けたまま、外からの月明かりを部屋の中に滑り込ませ、きっちり三分待って中に入る。扉を閉め、ロックする。畳の黴臭さが鼻腔をつく。 
 裸電球をつけるまでもなく、姿を消した古い友人が残した手掛かりなど、この部屋には何も残っていないことは瞭然だった。
 敷きっ放しの布団に身を潜らせ、男は取り敢えず眠ろうとした。畳と同じように臭く冷たい布団の感触を、努めて意識しないようにして。

 ドアノブを回す音がした時、すぐに体を起こすことができたのは、結局眠れなかったことが自分に与えた僥倖だと思った。腕時計の夜光塗料は四時半を指している。
 窓の外、真下の路地。見張りの小僧が二人、姿を隠すこともなく、こちらを見上げていた。
 二人?
 血が一瞬逆流する。この俺と対峙するのに、助太刀にガキ二人だけ?
 ドアノブを回すがちゃがちゃという音が、徐々に激しく、大きくなっている。「鄭相慶!」
 聞き慣れた叫び声。心なしか上ずっているのは、俺を見つけた喜びからか、俺と対峙する恐怖からか。
 男は躊躇せず、窓から身を躍らせた。割れたガラスが頬を切る。凍て付いた空気にそこだけ、じんわりと温もりを感じた。突然の出来事に小僧二人の表情が歪むのを視界の隅がとらえた。
 男は左膝を上げ、小僧Aに対してハイキックの体勢を取った。小僧Aは慌てて両腕を揃え、右顔面をガードする。それで、こいつが多少なりとも格闘技の経験があることは分かった。恐らく連中の門下生。
 それなら手心は不要だ。
 抱えた左足を、思い切り下に振りぬいた。足先が目の前の相手の脇腹にめり込む。そのまま敵の体は地面へと倒れた。
 もう一人の見張り役、小僧Bがジャックナイフを手に、眼を血走らせている。
 ドアを蹴破って部屋に入ってきたのだろう、龍洙の部屋の割れた窓ガラスから坊主頭が顔を出した。
「信洛!何びびっとんのや!」
 そうか、この小僧Bは、恐れ多くも力道山の本名と同じ名前なのか。
 男が近づいた分だけ、信洛が後ずさる。男は声をかけた。「おい」
 それだけで信洛の全身は、電流を当てられたようにビクリと硬直した。
「オマエ、そんなオモチャで俺をどうにかできると思ったか?」
 返事はない。聞こえてくるのはアパートの二階から繰り返される喚き声だけだ。夜明け前に窓ガラスが割れ、クソ坊主頭がぎゃあぎゃあ叫んだところで、誰も目を覚ましはしない。誰もカーテンを開けたりはしない。
 ここは、そういう地域だ。
「俺にナイフを預けたら、この場は見逃してやる」
 小僧Bが、ちらりとアパートの窓を伺った。それが男の神経に障った。
「オマエ、俺のこと知ってんねやろ?」
 素早く小僧が頷く。
「じゃあ、あの坊主と俺と、どっちが怖いか、判断つくよな?見てみい、アイツが今やってること言うたら、二階の部屋から指示出すだけの、文字通り高みの見物や。自分が下りてきて俺とやり合うだけの根性もない。オマエ、ほんまにそんな男の言いなりでええんか?」
 小僧が睨みつけてくる。男が呟く、なんやその眼は?
 信洛は簡単に視線を落とした。
「ここで俺を逃がして、後で腕一本折られるだけで済ますか、いらん男気発揮して今ここで俺からアバラ全部いてこまされるか、好きな方を選べや」
 相手は俯いたまま、ナイフを持った右手を差し出してきた。
 苦もなくそれを受け取り、屈辱に震える若者の肩を軽く叩いて、男はその場を立ち去ろうとーその時、ヒステリックに続く坊主頭の声が、決定的な言葉を紡いだ。
 信洛! 何しとんじゃこらあ!龍洙をやった時みたいにせんかいや!
 男は足を止めた。一本一本、全身の毛が逆立っていくようだった。
 振り返った男の強張った顔。信洛はその場にへたり込んだ。
「こ、殺してはおら」
 口上が最後まで述べられることはなかった。脇腹にナイフを突き立てられながら喋り続けるのは簡単なことではない。
 過度の緊張が小僧の心拍数を押し上げていたのか、傷口からは噴水のように血が溢れ出し、やがて全身の痙攣が始まった。二十年にも満たないと思われる某信洛の人生は、そしてこの小汚い路地で終焉を迎えようとしている。
 アパートからの叫び声がやんだ。
 男はナイフを抜き取り、放り投げ、歩き去った。ここには二度と帰ってくることもない。自分の拠り所は、もうあと一箇所しか残されていないが、その人に過度な迷惑はかけられない。
 ここで死んでしまうのも一つの人生か。
「誰でもええわ、さっさと襲ってこいや。喜んで刺されたるわ!」
 白みはじめた東大阪の空。返事はない。
 男はゆっくりと歩き続けた。

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