#657[短編]琥珀色の間[39]──すず虫の鳴く夜
スペイン帰りの夜、大翔の思い出の場所に向かう爽子。慣れない車でふいに触れ合う指先。静かな答え合わせの夜。連載第44回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、11話、12話、13話、14話、15話、16話、17話-I、17話-II、18話-I、18話-II、19話、20話-I、20話-II、21話、22話、23話、24話、25話、26話、27話、28話、29話、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
大翔はゆっくりと上り坂から本線へと合流すると、夜の光が速く流れ始めた。アクセルを少しだけ鋭利に踏み込むと、爽子の背中がシートに押しもどされる。まっすぐな道の夜の明かりが、白い光の帯となって流れていく。
大翔は操作パネルに手を伸ばし、ちょっと暑いかな、と呟いた。新しいクルマはどこかまだ他人行儀で、空調の設定を探る指が泳ぐ。
温度、下げましょうか、と爽子が手を伸ばした拍子に、大翔の指先にぶつかった。あ、すみません、と爽子は咄嗟に手を引いて、耳元のおくれ毛を耳にかけた。
父のクルマなんです。前のクルマの方が、キズとか匂いとか、部屋みたいで落ち着いたんですけどね。大翔が速度を戻し、左端に寄ると大きなトラックがゆったりと脇を抜けていった。
◇
どちらからともなく、あの桜の日の話になった。
大翔の目線の先のクルマとはかなりの距離があった。少し早口で言葉を紡ぐ。春先に母校の恩師の家を訪ねた時のことだ。
先生の時計が、いつもの男物の大きなアナログで、登山家っぽい感じで。旦那さんの形見だなんて、俺、知らなくて。先生に憧れてこれを買ったんですけどね、と大翔は左手を軽く爽子の方へ傾けた。
爽子は背もたれにそっと寄りかかり、大翔さん、ちゃんとしてますね、と口元をほころばせた。爽子は頬にかすかな笑みを浮かべる。
わたしなんて、すず虫を孵化させたくて冷蔵庫に虫かごを入れて、姉に本気で叱られました。おかしいでしょう?
それは、ダメですって、と大翔は肩を揺らして笑った。
でも、爽子さんといると飽きないです、と大翔は続けた。
あの日──俺、本当にびっくりして走っていって。そうしたら、あんなにすごい桜を見せてもらって。爽子さんって、時々すごく不思議な行動力がありますよね。
爽子は自分の手元に視線を落として、もう一度桜が見れたら、と思ったんです。と言って、大翔の方を向く。
「大翔さんが来てくれて、本当にうれしかったです」
大翔は照れくさそうに頭をかいて、また少し早口になる。
あの桜を一人で見るより、ずっと良かったです。
◇
クルマが緩やかに速度を落とす。吸い寄せられるように側道に入ると、弧を描いてコーナーを抜けていく。案内板に沿ってゆっくりと進み、誰もいない区画へそろりとクルマを停めた。リーン、とすず虫のようなシステム音がして、一瞬、耳鳴りのする静けさが訪れた。
その静寂を押しあけるようにして車を降り、ふたりは外の空気を深く吸い込んだ。誰もいない建物の中を、明かりを辿り、爽子がコンビニを見つけると、「コーヒーでも飲みませんか」と指をさす。大翔は「いただきます」と静かに頷いた。
買い物が終わって見晴台の方へ向かう途中、大翔はこっそり買っていたグミを爽子に差し出した。「懐かしい」と言って、爽子はひと粒口に入れる。爽子は自分もお土産があると言って、チョコレートの缶を大翔に手渡した。
◇
歩いた先の柵の向こう側、いま来た方を見ると、夜の街がふわりと呼吸をしている。
「帰ってきたんですね」爽子がふと漏らした。
向こうは今ごろ太陽が照りつけている頃だと、遠い空を思い描くように言う。少しだけ異国の風の匂いが混ざるような、スペインの旅の話をしながら、爽子はもうひと粒グミを口に運んだ。
「爽子さん。手紙ありがとうございました。まだ返事書いてないんですけどね……」大翔の細い声が、夜風にそっと混ざりあうようにして消えていった。
「いえ、ちゃんと伝えたいと思って、大袈裟にしてごめんなさい」爽子は小さく首を振る。
「空港、行っちゃってスミマセン」大翔ははにかんで頭を掻いた。
「あの時……旅行のこと、大翔さんには直接伝えてなかったですね」爽子はハッとして小さく息を呑んだ。
「俺、爽子さんにもう二度と会えないかと思って。豊川さんの話を聞いて、メッセージをするのも思いつかなくて……気づいたら走ってました」
夜風が大翔のうしろを抜けていき、大翔は右手で耳の上の髪に触れた。
「旅行にいきますって書いておけばよかったです。ホントにごめんなさい」爽子はちいさくお辞儀をした。
「いや、あれでよかったです。あそこで爽子さんに会えてなかったら、父さんにも会いに行ってなかったと思うし……」
「お父さまと?」
「はい。あのあとは実家に。それに……兄を見送った時の医師にもお礼を言えました」
「まあ。一晩でそんなに……」
「それで、院内コンサートをやらないかって。クリスマスの本番前に、慣らしで6月に。爽子さん。よかったらうちで弾いてもらえませんか?」大翔はそう言って爽子を向く。
「院内の……どんな催しなんですか?」爽子が遠慮がちに言うと大翔は、地域の人たちやボランティアの演奏家たちが集まって、ロビーで開く温かい集まりなのだと言葉を添えた。
「そういう場所があるんですね」爽子はビルの向こうへ目を向けた。
「きっと、みなさん喜ばれますね……なんだか、よかったです」爽子は言って、頷いた。
遠くのビルの明かりが、スローモーションのように赤く点滅する。
<了 2,100 字>
最終更新: 2026/7/9
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