#654[短編]琥珀色の間[37]──桜吹雪が還る音
仕事帰りの大翔は部屋の灯りをつけずに、ベッドに倒れこむ。その静けさを破るように、爽子の名前が画面に浮かんだ。連載第42回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、11話、12話、13話、14話、15話、16話、17話-I、17話-II、18話-I、18話-II、19話、20話-I、20話-II、21話、22話、23話、24話、25話、26話、27話、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
玄関の鍵を回すと、ビルの向こうがまだすこし明るかった。
靴を脱ぎながら、父の言葉と爽子の横顔が交互に浮かんでは消えた。
ジャケットを椅子にかけ、ワイシャツのままベッドに倒れ込む。
帰ってきたのに、どこにも帰り着けないような夜だった。
何もする気が起きない。
ただ意味もなく動画を再生したまま、自分だけが止まっている気がした。
ペン立てに挿したひよこのボールペンをみて、爽子にはじめて会った日の光景が頭をよぎる。眠気の中でこぼれた詩みたいな言葉が、大翔の心の奥に息づいていた。
一瞬、動画の音声が切れた。
大翔は反射的に枕元のスマホを取り、通知を開いた。
[雨の音、まだ耳に残ってる]爽子だった。
彼女は週末に帰国するといった。今ごろ、スペインの昼下がりはどんな光で、どんな空気が流れているのか、爽子からの連絡はまだなかった。
[どんな音?]と返すと、爽子からライブ配信のリンクが送られてきた。
大翔がリンクを開くと、広場のような場所に黒いピアノがあり、鍵盤の背景では大勢の人が行き交っていた。[見てるよ]と返すと、爽子は小さく手を振った。表情は見えないが元気そうだった。
空港で見送った時とおなじ服装で、ピアノの前に腰かける。すぅっとひと呼吸し、羽のように両手が鍵盤におりた。
春の海──異国の地にひびく雅な旋律に、旅人と同じように爽子の手元を、画面越しにみつめる。しんと冷えた冬の空気──光と風に溶ける春の気配が爽子の手からこぼれていた。
弾き終えた爽子の周りには少しずつ人が集まり始めていた。背の高い父親に抱かれた小さな子どもが爽子を指さし、ふたりは目を合わせる。
つぎの呼吸で、憂いをおびたトレモロ──音の粒がつくる水滴が放物線を描いて滴る。光と影の模様がゆっくりと広がり、爽子と自分、世界をつなぐ。
その音に、画面の向こうと記憶がつながる。雨上がりの凍てつく夜、横断歩道の先を細く、長くみつめていた。指先に落ちた雪を見て目線を上げた彼女の姿が蘇る。
大翔は急いでいるフリをして爽子を追い抜いた。
彼女の言葉の温度とか、未来のことを考えて自分の場所を整えようとする姿、その奥にある気持ちを見たまま、動けなかった。
その時、旋律の余韻が季節をまたぐ。
胸の奥の、桜吹雪が静かに舞い始めた。
あっ……
───────。
──。
その瞬間、あの日の桜吹雪が記憶の中で重なった。
大翔は声を漏らして起き上がり、息を呑んだ。
あの日、空中を泳ぐ桜吹雪に心を奪われ、列車の轟音にかき消されて、耳からこぼれ落ちたあの曲──。
その音の余韻が、胸の奥に眠っていた春の記憶を揺らした。
大翔は青白く光る小さな板を食い入るようにみつめた。切ない音色が、画面の向こうから、確かなカタチを持って、部屋を満たしていく──。爽子の指先が鍵盤の上で舞うたび、花吹雪の記憶がよぎった。
駆けつけたとき、すぐには彼女だと気がつかなかった。強い日射しでも、ドラマチックな影でもないごく普通の、この街の午後の光の中で、あまりにも自然に彼女は立っていた。その平凡さの中で、彼女だけが輪郭をもっていた。
──絶対に医者になんかならない。
何を見ても色褪せて見えていた日常に、彼女という存在が鮮烈な光を落とした。
大翔は鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなった。放たれる音のかげが、視界をじんわりと滲ませていく。爽子の髪が風にほどけるたび、自然体のまま、昼の光に溶けている──。
昼の光は残酷だ。嘘もごまかしも効かない。でも彼女はその中で、影を恐れずにそこにいた。信号が変わり、視界の端の彼女が一歩、歩き出したとき。
かざらず、構えず、ただ自分の速度で生きている彼女の姿を見て、胸元のざわめきがすっと静まっていった。
あの冬の日に、もう泣かないで、とはとても言えなかった。変わるなんて大げさなことは言えないけれど、ほんの少しだけ笑いたくなっていた彼女を、丸ごと受け止めたい。
画面の中から伝わる、彼女の音に心を重ねる──自分の気持ちがどうとかよりも、今の自分のままで、この気持ちのまま生き抜くこと。強がるままのこの自分を、ずっと覚えていてほしい。
いまが何よりも尊いと教えてくれた人。その指先から、彼女の歩んできた時間をほんの少しでも受け取りたい。
やっと、きみのあの日が伝わった気がした──
忘れられない夜を、忘れたくない夜のままで──
<了 1,800 字>
最終更新: 2026/6/7
2026/06/09

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