本能寺の変1582 5-3 足蹴事件 №6-192 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
5-3 足蹴事件 №6-192
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
←【五大要因】 中 小
←1 時代の風潮
1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
3尾張
←2 光秀の実像
1信長という男
2光秀という男
3光秀と光慶 1光秀の素性 2光秀の年齢 3嫡男光慶
4先祖の教訓
5大量殺戮
6信長の弱点
←3 光秀の苦悩
1粛清の怖れ
2志向の相違
3光秀の老い
4四国問題
5自立への道
←4 武田の滅亡
1甲斐遠征
2勝頼の首
3武田効果
←5 信長の油断 大要
「事態急変」
1 勝利の余韻 概略 4月21日
4月24日
2 四国出陣 概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
5月11日
3 足蹴事件 大 概略 5月12日 大 概 1/5 概 2/5 概 3/5 概 4/5 概
5/5 概
5月15日 大 概
密室にて 大 概 1/3 概 2/3 概 3/3 概
① 概 ② 概 ③ 概 ④ 概
⑤ 概
4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
5月17日 大 概
5月19日 大 概
5月20日 大 概
5月21日 大 概
5 時は今、・・・・・。
5月26日 大 概
5月27日 大 概
5月28日 大 概
5月29日 大 概
←さる程に、不慮の題目出来候て、
←【注目ポイント】 目次
←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
←【人物】
←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
←【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
5-3 足蹴事件 №6-192
【記事一覧】>【五大要因】 中 小>5 信長の油断>
大要 概略
5月12日 大要 概略
1/5 概
【記事一覧】>【五大要因】 中 小>5 信長の油断>3 足蹴事件>
→【四国問題】 天正十年 目次
0512 1/7 2/7 3/7 4/7 5/7 6/7 7/7
→【重史052】 【重史169】 【重史008】
この日が、信長の誕生日である。
フロイスは、六月二日(本能寺の変)の十九日前と言っている。
五月は、小の月(二十九日まで)。
逆算すれば、そうなる。
①彼の生まれた五月の日に
②己の神体を拝むことを命じた。
③信長がかくの如く驕慢となり、
④祭りを行った後十九日を経て、
⑤その体は塵となり灰となって地に帰し、
⑥その霊魂は地獄に葬られた‥‥(略)。
【重史052】「イエズス会日本年報」
信長は、天文三年1534の生れ。
この年、四十九歳。
来る年、五十歳になる。
「人間五十年、下天の内をくら(比)ぶれば」 →【重史169】
信長は、幸若舞を好んだ。
特に、「敦盛」の、この一節。
余程、気に入ったのだろう。
『信長公記』には、二度出てくる。
ともに、首巻。 →3【信長の人物像】 信05
信長には、絶大な自信があった。 →1 勝利の余韻
背景にあるのは、「武田効果」。
信長は、最大・最強の武器を手に入れた。
信長は、目的意識の強い男。
「五十年」を強く意識していた。
それまでに・・・・・。
「天下布武」は、成る。
そのことが、信長に先を「急」がせた。
それが、「焦り」となり、
そこに、「隙」が生じた。
これすなわち、「油断」。
「前を見れば、後ろは見えず」
光秀は、これを見逃さず。
そこを衝いた。
それが「本能寺の変」である。
そして、その(「天下布武」)先に、・・・・・。
信長の「さらなる夢」があった。 →【重史008】
フロイスは、このことを確りと書き留めている。
①一大艦隊を編成してシナを征服し、 「イエズス会日本年報」
②一大艦隊を編成して、シナを武力で征服し、 『日本史』
世界は、大航海時代。
イエズス会は、中国=明1368~1644で、積極的に、布教を拡大しようとしていた。
背景には、ポルトガル(スペインにより併合1580された)の野望があった 。
信長の目は、海外を見ていた。
信長は、フロイスら、イエズス会の宣教師たちから大きな刺激を受けた。
そして、覚醒。
「明」
信長の思いは、東シナ海の向こう側にあった。
これが、信長の志向。
結局、信長の拡大政策は、止まず。
戦いは、まだまだ、つづく。
そういうこと、である。
なれど、・・・・・。
光秀は、高齢。 →そ第7話①
五十九±四歳ぐらい。 →そ第77話
嫡男光慶は、若すぎた。 →そ第7話②
まだ、元服前。
13歳。 →そ第7話② 【重史014】
光秀は、明智の将来が不安だった。 →3光秀と光慶 (3)光秀の嫡男 2
その時、果たして、己は、生きているのだろうか。
だが、・・・・・。
信長は、きわめて壮健。
信忠は、申し分なき後継者。 →【 人物 】
織田家は、安泰。
盤石の体制となっているであろう。
そればかりに、あらず・・・・・。
2/5 概
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→【四国問題】 天正十年 目次
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→【重史146】
これが、信長である (①~⑲) 。 →【重史146】 0512 4/7
①中くらいの背丈で、華奢な体軀であり・・・声は快調で、
②極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、
③名誉心に富み、正義において厳格であった。
自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。
④幾つかのことでは人間味と慈愛を示した。
⑤彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。
⑥はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、
非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。
⑦彼はわずかしか・・・家臣の忠言に従わず、
一同からきわめて畏敬されていた。
⑧酒を飲まず、食を節し、
⑨人々は彼に絶対君主に対するように服従した。
⑩彼は、戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。
⑪彼は、善き理性と明晰な判断力を有し、
⑫神および仏のいっさいの礼拝、尊崇・・・の軽蔑者であった。
霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。
⑬彼は自邸においてきわめて清潔であり、
⑭自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、
⑮対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、
⑯ごく卑賤の家来とも親しく話をした。
⑰愛好したのは・・・茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩・・・相撲
⑱何ぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。
⑲彼は少しく憂鬱な面影を有し・・・はなはだ大胆不敵で、
万事において人々は彼の言葉に服従した。
『日本史』
特に、以下の五つに注目!!
一、信長は、典型的な戦国武将。② ⑥⑩⑪⑰⑲
きわめて、猜疑心の強い男。⑱ ②⑤⑥⑪⑰⑲
用心深く、疑い深い。
「隙」を見せぬ男である。
一、信長は、忍耐強く、粘り強い。⑩ ⑤⑦⑪
執念深く、執拗である。
一、信長は、信念の人。⑦
目的意識が強い。⑤ ⑦⑪⑲
時間と戦っていた。
一、信長は、絶対専制君主。⑨ ③⑤⑦⑪⑲
誇り高い男。③
口答えなど、以ての外。
決して、逆らってはならぬのである。
一、信長は、理性的であり判断力に優れていた。⑪ ⑭⑮⑱
正に、つけ入る「隙」のない男。
空前絶後の人物だった。
信長は、合理主義者。⑮ ⑤⑦⑪⑭ →そ第7話⑥
無駄を嫌う。
用が済めば、棄てられる。
役に立たねば、棄てられる。
邪魔になれば、棄てられる。
信長は、完璧主義者。⑭ ⑤⑦⑩⑪
「あらゆることをすこぶる丹念に仕上げ」
冗漫を嫌った。⑮ ⑤⑦⑪⑭
性急・せっかちである。
光秀は、信長の気性・性格を知悉していた。 →【光秀という男】 目次
だからこそ、今がある。
3/5 概
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→【四国問題】 天正十年 目次
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→【重史240】 【重史172】 【重史222】 【重史163】
【重史173】 【重史146】 【重史009】
信長は、重臣といえども、容赦しない。 →0512 5/7
佐久間信盛を粛清した(1~19) 。 →【重史240】 【重史172】
覚え
1 父子、五ケ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、
2 此の心持の推量、大坂大敵と存じ、武篇(武辺)にも構へず、
3 丹波国、日向守が働き、天下の面目をほどこし候。
次に、羽柴藤吉郎(秀吉)、数ヶ国比類なし。
4 柴田修理亮、右の働き聞及び、一国を存知ながら、
5 武篇道ふがひなきにおいては、
6 やす田(保田安政)の儀、
7 信長家中にては、進退各別に候か。
8 小河(緒川)・かり屋(刈谷)、跡職申し付け候ところ、
9 山崎申し付け候に、
10 先々(先代)より、自分に拘(かか)へ置き候者どもに、
11 先年、朝倉破軍の刻(きざみ)、
12 甚九郎、覚悟の条々、書き並べ候へば、
13 大まはしに、つもり候へば(大略を言えば)、
14 与力を専(もっぱら)とし、
15 右衛門与カ・被官等に至るまで、斟酌(遠慮)候の事、
16 信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、
17 先年、遠江へ人数を遣(つかは)し候刻(きざみ)、
18 此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、
19 父子かしらをこそげ、高野の栖(すまい)を遂げ、
右、数年の内、一廉(ひとかど)の働きなき者、未練の子細、
今度、保田において思ひ当り候。
抑(そもそ)も、天下を申しつくる信長に、
口答申す輩(ともがら)、前代に始り候条、
爰(ここ)を以て、当末二ケ条(18,19)を致すべし。
請けなきにおいては、二度、天下の赦免、これあるまじきものなり。
天正八年八月 日
『信長公記』
石山本願寺、退城。 →【重史222】
その時の様子である。
八月二日、未の刻(14時頃)、
雑賀・淡路島より数百艘の迎へ船をよせ、
近年、相拘(かか)へ候端城の者を初めとして、
右往左往に、縁々を心懸け、
海上と陸と、蛛の子をちらすが如く、ちり々々に別れ候。
(『信長公記』天正八年八月二日条)
戦いが終われば、粛清が始まる。 →【重史163】これが、戦国の世。
佐久間信盛を見よ!! →そ第7話⑥
信盛は、大坂攻めの総指揮官。
織田家の重臣筆頭者。
大身であり、家中最大の軍事力を有していた。
粛清は、ある日、突然、訪れる。 →【重史240】 【重史163】
信盛は、全く、予期していなかった。
爰(ここ)にて、佐久間右衛門かたへ、御折檻の条、
御自筆にて、仰せ遣はさるゝ趣、
(覚え1~19)
『信長公記』
信長は、最後まで、佐久間信盛を赦さなかった。
哀れな末路であった。 →【重史240】 【重史172】
此の如く、御自筆を以て遊ばし、
佐久間右衛門父子かたへ、
楠木長安・宮内卿法印・中野又兵衛、三人を以て、
遠国へ退出すべき趣、仰せ出ださる。
取る物も取り敢へず、高野山へ上(のぼ)られ候。
爰にも、叶ふべからざる旨(むね)、御諚に付いて、
高野を立ち出で、紀伊州熊野の奥、足に任せて逐電なり。
然る間、譜代の下人に見捨てられ、かちはだし(徒歩裸足)にて、
己と草履(ぞうり)を取るばかりにて、見る目も哀れなる有様なり。
『信長公記』
信盛は、吉野の山中で死んだ。 →【重史173】
奈良県の南端、吉野郡十津川村の湯泉地温泉とされる。
紀伊熊野との国境近く、山奥の湯治場である。
療養のため、滞在していたのだろう
「非業の最期」
これが、織田家筆頭家老の成れの果て。
「本能寺の変」の前年のこと。
十九日、
一、佐久間(信盛)、十津川の湯にて、死ぬにつき、
高野の宿坊の庫(くら)の物、請け取るべきの由、
信長より、仰せつけられ、上使、指し上せらるゝのところ、
悉(ことごと)く 以って討ち殺しおわんぬと云々、
これにより、諸国の高野聖とらえらる、
近日、手遣ひあるべきの由、沙汰に及ぶと云々、
則ち、来たる廿三日、陣ふれ(触)、これ在りと云々、
高野滅亡、時刻到来か、
(「多聞院日記」天正九年八月十九日条)
信長は、忍耐強く、執念深い。 →5月12日 2/4 【重史146】
根に持つタイプ。
後で、必ず、蒸し返す。
「先年、朝倉破軍の刻」
信長は、絶対専制君主。
己が天下の支配者であることを強く意識していた。
「抑も、天下を申しつくる信長」、とある。
信長は、誇り高い男。
己に口答えする家臣を、決して、赦さない。
「口答申す輩、前代に始り候」、とある。
信長は、粛清の人。 →【重史163】
不意を衝く。
「常套手段」
恐ろしい男なのである。
・・・・・。
光秀は、それを怖れていた。
飛鳥尽きて、良弓蔵(かく)る、
狡兎(こうと=うさぎ)死して、走狗(そうく=犬)烹(煮)らる、
→【重史009】(「史記」越王勾践世家)
用が済めば、粛清される。
役に立たねば、粛清される。
邪魔になれば、粛清される。
「明日は、我が身」
・・・・・。
このことが、脳裏から、離れない。
「油断」しては、ならぬ。
「隙」を見せては、ならぬ。
・・・・・。
緊張の日々がつづく。
4/5 概
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→【四国問題】 天正十年 目次
0512 1/7 2/7 3/7 4/7 5/7 6/7 7/7
→【重史235】 【重史237】
信長は、人々の心を大いに引きつけた。 →0512 6/7 【重史235】
「常に日本の人心を収攬し」「一般人民の心を収攬した」、とある。
フロイスの観察眼は、鋭い。
1「天下布武」
信長は、義昭を擁立して上洛。
室町幕府の再興を成した。
天下=京都。
彼(信長)が僅かに尾張といふ一国の半ば領主より、
その努力と武勇とによって公方様(将軍 足利義昭)
すなわち全日本の王、内裏につぐ、第二人者である人に
都を治めさせたこと、
2将軍追放
信長は、将軍義昭を追放して日本統一に着手した。
天下=日本。
また信長が戦争においては怖(おそ)るるところなく、
心寛(ひろ)く武略と生来の智慮を有するにより、
常に日本の人心を収攬し、
公方を都より追うて
天下(すなわち日本王国)と称する隣接諸国の征服に着手したことは
(以下略)・・・・・。
3領国拡大
信長は、敵対勢力を次々に撃破した。
信長の勢威は、飛躍的に増大した。
而して(そして)これに成功したため、
信長の名誉と領土は広がり、
短き年月の間に五十余ヵ国をその支配の下に置き、
征服したる諸王を殺し、多くの宝を集め、
日本の富と貴重なる物は悉(ことごと)く彼の所有に帰した。
彼は益々その勢力と名声を現はさんため、
記憶すべき多くのことをなしたが(以下略)・・・・・。
(「イエズス会日本年報」天正十年十月二十一日付)
信長は、戦国乱世を終わらせようとしていた。 →【重史237】
人々は、平和な世の到来を待ち望んでいた。
信長は、一般大衆に人気があった。
慕われていた。
4安土城
フロイスの見た安土。
彼(信長)は近江国の安土山と称し、都より十四レグワ(≒70km)の所に
甚だ驚くべくまた非常に立派なる城と宮殿とを建築した。
この宮殿と七階を有する城の壮麗なることは、
彼が大いに誇ったところである。
その下には新たに市を建てたたが、日に月に栄え、
今は長さ1レグワ(≒5km)に達した。
5大名政策
而して征服した諸国を一層安全ならしむるため、
主なる領主に妻子と共に同所に居住し、広大なる邸宅を建築すること
を命じた。
6道路政策
都より安土山までは、すでに述べたとほり、十四レグアあるが、
この間に平坦な道を造り、両側に木を植え、非常に大きな橋を架け、
足を濡らさずして通行さるるやうにした。
またその征服した諸国にかくのごとき道路をできるだけ造り、
7平和の実現
絶えず戦争のあったこの諸国を、
その知恵と努力とによって漸次(ぜんじ)平和に帰せしめた。
8関所政策
また、彼の統治前には道路において高い税を課し、
1レグワごとにこれを納めしめたが、
彼は一切免除し少しも払はしめなかったので、
一般人民の心を収攬した。
(「イエズス会日本年報」天正十年十月二十一日付)
事は、全て、順調に推移していた。
否、順調に過ぎた・・・・・。
「一寸先は、闇」
何が起きるかわからぬ時代。
「油断」すべからず。
「油断」すべからず・・・・・。
5/5 概
【記事一覧】>【五大要因】 中 小>5 信長の油断>3 足蹴事件>
→【四国問題】 天正十年 目次
0512 1/7 2/7 3/7 4/7 5/7 6/7 7/7
→【重史236】 【重史258】 【重史052】 【重史259】
〈読み方 コツ〉
かなりの長文になります。
先ずは、太字部分からお読みください。
余裕のある方は、全文へ。
信長は、傲慢になっていた。 →0512 7/7 【重史236】
フロイスが、証人である。
余程、強い印象を受けたのだろう。
「傲慢」「驕慢」を多用している。
彼(信長)は日本の王侯大身を悉(ことごと)く軽蔑したにかかはらず、
我等(イエズス会の宣教師)に対しては常に好意を示し、
異郷の人であるため同情を表した。
また我等に対し反対者の讒言と偽りの証言が屢々(しばしば)行わるる
が、
パードレ(宣教師)の行状がよくその真なることを知ってゐ故、
彼の生存中は少しも妨害を受くることなく、
その領内においてデウスの教を説き聖堂を建つることを許すと言った。
彼(信長)は数回説教を聴き、彼に説いた道理に力あることを悟ったやう
であるが、
傲慢であるためデウスの御恵の光を受くることができなかった。
(中略)
彼は万物の創造主の力強き御手より受けたる大いなる恩恵を感謝して
謙遜することなく、
かへって益々傲慢となり、
日本全国の領主と称し、
日本の古老の言によれば、
五十余ヵ国よりかつて見、また読みたることなき甚深なる尊敬を
受くるに満足せず、
ネブカドネザル(新バビロニアの王)の驕慢に倣ひ、
死すべき人間にあらず、神にして不滅のものなるが如く、
尊敬せられんことを希望した。
(「イエズス会日本年報」天正十年十月二十日付)
それは、増長し・・・・・。 →【重史258】
「今は盲目の極に達し」、とある。
信長は、安土山に総見寺を建立した。
而してこの嫌忌すべき希望を達せんために、
その宮殿に隣接し、城を離れた城を離れたる山に上に寺院を建築するこ
とを命じ、
この寺院につぎの如く記してその名誉心の欲するところを表した。
これをわが国語に翻訳すればつぎのとほりである。
当日本の大国において、遠方より望む者に喜悦と満足を与ふる安土山城
の山に、
全日本の領主信長はこの寺院を建立し、総見寺と名附けた。
これを大いに尊崇する者の受くべき功徳と利益はつぎの如し。
第一に、
富者ここに来りて崇敬すれば、益々富を集め、
下賤にして憫なる(哀れな)貧者ここに来りて崇敬すれば、この寺院に来
りたる功徳によって富者となるべく、
子女及び後継者なき者家系を続くるために来れば、直に子孫を得、寿を
長じ、平和と安楽を得べし。
第二に、
生命は延びて八十歳に至り、
疾病は癒え、希望、健康及び平安を得べし。
毎月予が誕生の日を聖日とし、この寺院に来るべし。
これを信ずる者は必ず彼に約束するところのものを得べく、
これを信ぜざる邪悪の人は、現世においても来世においても亡ぶるに至
るべし。
信長は、自身を崇拝させようとしていた。
聖職者フロイスの目には、そう写っていた。
「本能寺の変」
その僅か五ヶ月後の報告である。
生々しい。
前に述べたる如く、信長は政治を始めて以来常に神仏の崇拝を意としな
かったが、
今は盲目の極に達し、悪魔に勧められて大いに尊崇された偶像を諸国よ
り安土の寺院に持来った。
ただしこれを崇拝させるためでなく、これによって己を崇拝させんため
であった。
日本においては神の宮には通常神体と称する石がある。
神体は神の心また本質といふことであるが、
安土山の寺院には神体はなく、
信長は己自らが神体であり、生きたる神仏である。
世界には他の主はなく、彼の上に万物の創造主もないと言ひ、
地上において崇拝されんことを望んだ。
家臣等もまた信長自身に対するほか崇拝すべきものはないと明言し、
同所に集めた偶像に劣らざる崇拝を致さんことを望んだ。
或人がボンサンと称する石を携え来た時、
彼は寺院の最も高き所、諸仏の上に壁龕(へきがん)を造らせ、ここにそ
の石を置いた。
(「イエズス会日本年報」天正十年十月二十日付)
信長、誕生の日。 →【重史052】
信長は、己の誕生日に、総見寺に参拝することを命じた。
而して領内の諸国に布告し、市町村においては男女貴賤悉(ことごと)く
彼の生まれた五月の日にかの寺院の来って同所に収めた己の神体を拝む
ことを命じた。
諸国より集まった人数は非常に多く、ほとんど信ぜられざるもので
あった。
慢心、ここに極まれり。
信長がかくの如く驕慢となり、
これすなわち、「油断」。
結果的に、そうなる。
フロイスは、宣教師=神職者。
その立場から、「本能寺の変」について、以下のように、結論づけた。
世界の創造主また贖主であるデウスのみに帰すべきものを奪はんとした
ため、
デウスはかくの如く大衆の集まるを見て得たる歓喜を長く享楽させ給は
ず、
安土山においてこの祭りを行った後十九日を経て、
その体は塵となり灰となって地に帰し、
その霊魂は地獄に葬られた‥‥(略)。
(「イエズス会日本年報」天正十年十月二十日付)
「武田効果」により、
信長は、さらに傲慢になっていた。 →【重史259】
光秀は、そのことを、他の誰よりもよく知っていた。
光秀は、信長の甲斐出陣に同行して(三月五日~四月二十一日)以来、帰陣後も、この日まで、連日のように、信長の側近くにあった。
当一五八二年の三月八日(天正十年二月十四日)夜の十時に、
天は東の方が甚だ明るく、信長の城の最高の塔の上方は甚だ赤く見え、
我等に非常な恐怖を起こしたが、これは朝まで続いた。
赤さは甚だ低く、二十レグワ(≒5×20km)の所よりは見ることができまい
と思はれたが、その後聞いたところによれば、豊後においてもこれが見
えたといふことである。
信長がこの驚くべき兆(きざ)しにかかはらず、怖るることなく甲斐国の
王に対する戦争に出たことは、我等カザ(教会)に居る者の驚いたところ
である。
同地には世子がまづ赴き、
信長はその後に行ったのであるが、
戦争は好結果を収め、
王とその子を殺し、甚だ大なる国四ヵ国を占領した。
彼は常に大いに苦しめられ、絶えず懸念した敵に打ち克ったのであるが
故、
この勝利によって一層傲慢となった。
(「イエズス会日本年報」天正十年十月二十日付)
これが、天正十年五月中頃の、信長の精神状態。
信長は、感情が高ぶっていた。
心の余裕を失っていた。
すなわち、精神的なバランスを欠いていた・・・・・。
光秀は、肝に銘じていた。
信長は、誇り高い男。
逆らってはならぬ・・・・・、
逆らってはならぬ・・・・・、
のである。
だが、信長に縋(すが)る他、術がなかった・・・・・。
光秀は、切羽詰まっていた。
「土佐の一件」・・・・・。
どうすることも出来なかった。
光秀には、自負があった。
信長に仕えて十五年。
これまで、
一度たりとも、失敗はなかった。
一度たりとも、期待を裏切ることはなかった。
正に、完全無欠。
パーフェクト。
見事である。
信長の夢「天下布武」。
光秀は、生命を賭して、信長を支えた。
数多の戦場。
輝かしき、手柄・勲功。
信長のために、大いに、貢献した。
「織田家中、随一」
そう、言っても過言ではあるまい。
その光秀の、初めての・・・・・。
「それに免じて」
との思いがあったのだろう。
淡い期待をもって・・・・・。
「最後の手段」
そうする他なかったのである。
そして、その時が来た・・・・・。
5月15日
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→【四国問題】 天正十年 目次
0515 【足蹴事件】 目次 1/3 2/3 3/3
→【重史226】
信長は、家康に駿河・遠江を与えた。 →0515 【重史226】
信長公、当春、東国へ御動座なされ、
武田四郎勝頼・同太郎信勝・武田典厩、一類、歴々討ち果たし、
御本意を達せられ、
駿河・遠江両国、家康公へ進らせらる。
家康は、御礼のため、安土へ向かった。
信長は、家康の来訪に対し最大限の配慮を示した。
其の御礼として、徳川家康公、幷(なら)びに、穴山梅雪(信君)、
今度、上国候。
信長は、先の甲斐遠征の帰途、家康の領国 三河・遠江に立ち寄っている。
その時の家康の心尽くしに対する、返礼の意味もあったのかもしれない。
一廉(ひとかど)、御馳走あるべきの由候て、
先づ、皆道を作らせ、
所々、御泊り々々に、国持ち・郡持ち大名衆罷り出で候て、
及ぶ程、結構仕り候て、御振舞い仕り候へと、
仰せ出だされ候ひしなり。
五月十四日。
家康は、番場に到着した。
安土の手前、凡そ七里28km(滋賀県米原市番場)。
丹羽長秀が、仮御殿を用意して接待にあたった。
五月十四日、江州の内、ばんばまで、家康公・穴山梅雪、御出でなり。
惟住五郎左衛門、
ばんばに仮殿を立ておき、雑掌を構へ(酒肴の支度をととのえ)、
一宿、振舞い申さるゝ。
信忠も、番場に到着した。
信忠は、暫し休息した後、そのまま安土へ向かった。
同日に、三位中将信忠卿、御上洛なされ、
ばんば、御立ち寄り、暫時、御休息のところ、
惟住五郎左衛門、一献進上候なり。
其の日、安土まで御通候ひキ。
五月十五日。
家康は、安土に到着した。
信長は、歓待した。
宿所は、大宝坊である。
五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至りて御参着。
御宿大宝坊然るべきの由、上意にて、
信長は、光秀に、接待役を命じた。
この日から、十七日までのこと。
御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、
京都・堺にて珍物を調へ、生便敷(おびただしき)結構にて、
十五日より十七日まで、三日の御事なり。
【重史226】『信長公記』
密室にて 大要 概略
1/3 概
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密室にて>
→【四国問題】 天正十年 目次
【足蹴事件】 目次 1/3 2/3 3/3
→【重史040】 【重史146】 【重史240】
【重史014】
信長、家康を饗応す。 →【重史040】
ところで、信長は、奇妙なばかりに親しく彼(光秀)を用いたが、
このたびは、その権力と地位をいっそう誇示すべく、
三河の国主(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことを
決め、
饗応役は、明智光秀。
その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。
ここで、事件が起きた。
「密室」、とある。
これらの催し事の準備について、
信長は、ある密室において、明智と語っていたが、
信長は、絶対専制君主。 →【重史146】
きわめて、誇り高い男。
逆上しやすく、 →【重史040】
自らの命令に対して、反対意見を言われることに堪えられない性格だった。
元来、逆上しやすく、
自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であっ
たので、
このことを、他の誰よりも、よく知っていたのが光秀だった。
佐久間信盛を見よ!! →【重史240】
「朝倉破軍の刻」
信盛は、それを軽んじた故、粛清された 。
だが、光秀は、甘かった。 →【重史040】
否、そうする他、術がなかった。
おそらくは、土佐の一件・・・・・。
否、それが、「油断」。
と、いうことなのだろう。
人々が語るところによれば、
彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、
その一言が、信長の逆鱗に触れた。
信長は、立ち上がり、
怒りを込め、
一度か二度、明智を足蹴にしたということである。
(『日本史』)
フロイスは、イエズス会の宣教師。 →【人物】 【重史014】
信長の身近に、同会の関係者がいたらしい。
おそらくは、黒奴「弥助」。 「松平家忠日記」
弥助は、「本能寺の変」を生き延びた。
捕縛され、京の南蛮寺へ。
→「イエズス会日本年報」天正十年十月二十日付
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→【四国問題】 天正十年 目次
【足蹴事件】 目次 1/3 2/3 3/3
→【重史041】 【重史028】 【重史005】
【重史033】 【重史016】
だが、この事件が、世間に知られることはなかった。 →【重史041】
だが、それは密かになされたことであり、二人だけの間の出来事であっ
たので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、
フロイスは、このように見ていた (1~4) 。
1この事件が、「本能寺の変」のきっかけになった。
あるいはこのことから、
明智は、何らかの根拠フンダメントを作ろうと欲したかも知れぬし、
2光秀は、欲深い野心家である。
あるいは〔おそらくこの方がより確実だと思われるが〕、
その過度の利欲と野心が募りに募り、
3光秀は、天下を欲していた。
ついには、それが天下の主になることを、彼に望ませるまでになったの
かもしれない。
4光秀は、計画的だった。
誰にも、胸中を明かさず。
ベストタイミングを窺っていた。
ともかく、彼はそれを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果たす適当な
時期を、ひたすら窺っていたのである。
【重史041】『日本史』
以上から、次のことがわかる。
1この事件が、「本能寺の変」の契機(引き金)になった。
2光秀は、自立の道を選んだ。
信長は、疑い深い。
信長は、忍耐強い。
信長は、合理主義者。
信長は、不意を衝く。
光秀は、信長を怖れていた。
ヴァリニャーノの来訪。
信長の「さらなる夢」。
志向の相違。
利害の不一致。
四国問題、勃発。
元親、承諾せず。
交渉は、暗礁に乗り上げた。
光秀は、老いた。
光慶は、若すぎた。
明智の将来は、暗い。
甲斐遠征。
「武田効果」
「天下布武」は、成る。
その時期が、大幅に、早まった。
信長は、傲慢になっていた。
元親との交渉失敗→責任問題。
「足蹴事件」
信長は、誇り高い男。
命に従わぬ者には、容赦しない。
光秀の心が、信長から離れた。
光秀は、出来る男。
キレ者である。
先が見えた。
しかし、
頼辰が、間に合えば、・・・・・。
全てが、解決する・・・・・。
光秀は、未だ、迷っていた。
5月27日
なれど、
頼辰は、終に、帰らず。
「万事休す」
斯くして、
全てが、終わった。
光秀は、諦める他なかった。
そこに、報せが入った。
「信長が上洛する」・・・・・。 →【重史028】
5月28日
「時は今」、・・・・・。 →【重史005】
5月29日(小の月 30日はない)
そして、
信長が、上洛した。 →【重史033】
しかも、少人数で。
これすなわち、「油断」・・・・・。
光秀は、忠義心が薄い。
言い換えれば、独立心が強い。
全ては、子らのため。
明智のため。
中国出陣の日は、六月一日。
その前日のこと。
3結果として、光秀に天下が転がり込んで来た。
それだけのこと。
4光秀は、計画的だった。
誰にも、胸中を明かさず。
その機を窺っていた。
中国へ出陣すれば、全てが終わる・・・・・。
光秀は、決断した。
さる程に、不慮の題目出来(しゅったい)候て、 →【重史016】
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→【四国問題】 天正十年 目次
【足蹴事件】 目次 1/3 2/3 3/3
光秀は、極限状態に追い込まれていた (①~⑤) 。
①光秀は、粛清を怖れていた。
概 →5月12日 5/7
信長は、典型的な戦国武将。 →5月12日 4/7
猜疑心が強い。
信長は、執念深い。 →5月12日 4/7 5/7
根に持つタイプ。
後で、必ず、蒸し返す。
信長は、絶対専制君主。
その権勢は、正に、右肩上がり。
止まる所を知らず。
天正八年1580、本願寺降伏。
天正九年1581、京都御馬揃え。
天正十年1582、武田滅亡。
信長は、天下の支配者であることを強く意識していた。
信長は、誇り高い男。
口答えする家臣を、決して、赦さない。
信長は、合理主義者。 →5月12日 4/7
無駄を嫌う。
信長は、不意を衝く。 →5月12日 5/7
「常套手段」
粛清は、ある日、突然、訪れる。
恐ろしい男なのである。
佐久間信盛を見よ!! →5月12日 5/7
信盛は、大坂攻めの総指揮官。
織田家の重臣筆頭者。
大身であり、家中最大の軍事力を有していた。
信長は、重臣といえども容赦しない。
信盛を粛清した。
光秀は、信長の気性・性格を知悉していた。 →5月12日 5/7
それ故、今がある。
「狡兎死して、走狗烹(煮)らる」
用が済めば、粛清される。
役に立たねば、粛清される。
邪魔になれば、粛清される。
戦いが終われば、粛清が始まる。
「明日は、我が身」
このことが、脳裏から、離れない・・・・・。
緊張の日々が、つづく。
「油断」してはならぬ・・・・・。
「油断」してはならぬ・・・・・。
②光秀には、老いの問題があった。
光秀は、きわめて難しい問題に直面していた。 →そ第76話
光秀は、高齢者。
年齢は、五十九±四歳ぐらい。 →そ第77話
生年は、大永四1524±四年ぐらい。
着実に、老人に、否、その時に近づいていた。
嫡男光慶は、まだ、13歳。
若すぎた。
六年前(天正四年)の大病のこともある。 →【重史013】 そ第7話⑰
光秀は、それ程、頑強な肉体の持ち主ではなかった・・・・・。
長生きするとは、思っていなかったのではなかろうか。
光秀の最大の敵は、時間だった。 →そ第76話
時は、容赦なく過ぎ去って行く。
人生の残り時間は、少ない。 →そ第77話
このことが、光秀に先を急がせた。
光秀は、信長より、年長。 →そ第75
信長より、先に、死ぬ。
未熟な光慶を一人残して・・・・・。
光秀にとって、このことが最大の悩み。
大きな不安だった。
相互不信の時代。 →そ第76話
信長は、猜疑心が強い。
光秀を信用していない。
光秀もまた、猜疑心が強い。
信長を信用していない。
光秀は、明智の将来が不安だった。 →そ第76話
「天下布武」
問題は、その後、である。
信長の「さらなる夢」。
信長は、事実行なわれたように、都に赴くことを決め、
同所から堺に前進し、
毛利を平定し、
日本六十六ヵ国の絶対君主になった暁には、
一大艦隊を編成して、シナを武力で征服し、
諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった。
【重史008】 【重史260】『日本史』
果たして、その時、自分は生きているだろうか・・・・・。
光秀は、自信が無かった。
となれば、明智は、光慶の代。
なれど、
信長が、光慶を引き立ててくれる保証など何もない。 →そ第76話
むしろ、その逆である。
光慶は、未だ未熟。
「役に立たぬ」
となれば、
明智の領地は、召し上げられる・・・・・。
斯くなれば、明智は、再び、没落・・・・・。 →そ第76話
光秀は、それを怖れていた。
何としても、これを回避せねばならなかった。
親ならば、当然のこと。
「光慶を守らねばならぬ」
全ては、子らのため。
明智のため。
光秀は、このことに、頭を悩ませていたのである。
そのためにも、失敗など、あってはならぬこと。
決して、赦されぬことであった。
光秀は、頼辰の帰りを待った。
土佐は僻遠の地。
そうする他なかった。
間に合えば、・・・・・。
間に合わぬ時は、・・・・・。
時折、「自立」の二文字が脳裏を掠める。
斯くあれば、これまでの難題は全て解消する。
なれど、信長は、それを赦さず・・・・・。
地獄の如き日々がつづく。
③中国出陣が間近に迫っていた。
甲斐の武田は、消滅した。 →【重史170】
三月十一日、武田四郎父子、簾中(れんちゅう)、一門、
こがつこ(駒飼*)の山中へ引籠らるゝの由、
滝川左近(一益)、承り、
(中略)
四郎父子の頸、
滝川左近かたより、
三位中将信忠卿へ、御目に懸けられ候のところに、
関可平次・桑原助六両人にもたせ、
信長公へ、御進上候。
(『信長公記』)
信長は、浪合で、勝頼の首と対面した。 →【重史263】
(三月)十四日、平谷(同平谷村)を打ち越え、なみあひに御陣取り。
爰にて、武田四郎父子の頸、関与兵衛・桑原介六、もたせ参り、
御目に懸けられ候。
則ち、矢部善七郎に、仰せつけられ、飯田へ持たせ遣はさる。
光秀も、浪合で、勝頼の首を見た。
光秀は、信長に同行している。
これが、武田の最期。
信長に逆らった者の末路。
「哀れなものよ」
時は、滔々と流れていく。
信長は、武田の滅亡を世に知らしめた。
飯田にて、勝頼の首を晒す。
十五日、午の刻より雨つよく降り、
其の日、飯田に御陣を懸けさせられ、
四郎父子の頸、飯田に懸け置かれ、上下見物仕り候。
十六日、御逗留。
敗者、斯くの如し。
「無念」
その形相(ぎょうそう)。
光秀の、脳裏にこびり付く。
信長は、勝頼の首を京へ送った。
「獄門に懸けよ」
使者は、長谷川宗仁。
武田四郎・同太郎、武田典厩・仁科五郎、
四人の首、長谷川宗仁に仰せつけられ、
京都へ上せ、獄門に懸けらるべきの由候て、御上京候なり。
(『信長公記』)
信長は、絶対的な武力を手に入れた。 →【重史018】
「戦わずして、勝つ」 →そ第74話②
信長の勢威は、絶頂に達していた。
これすなわち、「武田効果」。 →【重史018】
最早、風前の灯火。
信長は、容赦しない。
毛利は、武田と同じ道を歩むことになる。
北は越後境、東はうすいが峠・川中島等、信州中に一所も残らず、
侘言せしめ、落着候、
西上野、同前に候、
此の如く、卅日・四十日際に一偏に属するの事、
我ながら驚き入る計りに候、
(「武家事紀」「織田信長文書の研究」)
最早、この国に、信長に抗う者など、いない。
信長の脳裏には、「勝頼の首」。 →【重史263】
信長には、絶大な自信があった。 →そ第74話②
武田滅亡 → 「武田効果」 → 毛利滅亡
さすれば・・・・・、
「天下布武」は、成る。
否、成す。
となれば、羽柴秀吉・・・・・。
中国出陣の日は、近い。 →4月24日
秀吉から、注進あった。
「小早川隆景、幸山城に入る」
なれど・・・・・、
信長は、動かず。
「引きつけよ」
次の報せを待つ。
信長は、出陣のタイミングを窺っていた。
中国進発の事、来秋たるべきの処、
今度、小早川、備前児嶋より敗北せしめ、備中高山に楯籠るの間、
羽柴藤吉郎、出陣せしめ取巻くの由、注進候、
重ねて、一左右次第、出勢すべく候、
由断なく、用意専一に候、
【重史036】(「細川家文書」)
信長は、目的意識の強い男。 →4月24日 5月12日 1/5
性急・短気。
先を急いでいた。
信長は、この年、四十九歳。 →【重史052】
「人間五十年」 → 【重史169】
信長は、この「五十年」を強く意識していた。 →5月12日 1/5
それまでに、・・・・・。
そのことが、信長に先を「急」がせた。 →5月12日 1/5
それが、「焦り」となり、
そこに、「隙」が生じた。
これすなわち、「油断」。
「前を見れば、後ろは見えず」
光秀は、これを見逃さず。
そこを衝いた。
それが「本能寺の変」である。
④四国出陣命令が発令された。
概
⑤「天下布武」が成れば、次は、「さらなる夢」。
概
以上①②③④⑤のような状況下で、足蹴事件は、起きたのである。
⇒ 次へつづく
