本能寺の変1582 5月7日 №6-187 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
5月7日 №6-187
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
←【五大要因】 中 小
←1 時代の風潮
1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
3尾張
←2 光秀の実像
1信長という男
2光秀という男
3光秀と光慶 1光秀の素性 2光秀の年齢 3嫡男光慶
4先祖の教訓
5大量殺戮
6信長の弱点
←3 光秀の苦悩
1粛清の怖れ
2志向の相違
3光秀の老い
4四国問題
5自立への道
←4 武田の滅亡
1甲斐遠征
2勝頼の首
3武田効果
←5 信長の油断 大要
「事態急変」
1 勝利の余韻 概略 4月21日
4月24日
2 四国出陣 概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
5月11日
3 足蹴事件 大 概略 5月12日 大 概 1/5 概 2/5 概 3/5 概 4/5 概
5/5 概
5月15日 大 概
密室にて 大 概 1/3 概 2/3 概 3/3①~⑤ 概
① 概 ② 概 ③ 概 ④ 概
⑤ 概
4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
5月17日 大 概
5月19日 大 概
5月20日 大 概
5月21日 大 概
5 時は今、・・・・・。
5月26日 大 概
5月27日 大 概
5月28日 大 概
5月29日 大 概
←さる程に、不慮の題目出来候て、
←【注目ポイント】 目次
←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
←【人物】
←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
←【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
5月7日 №6-187
【記事一覧】>【五大要因】 中 小>5 信長の油断>2 四国出陣>
→【四国問題】 天正十年1582 五月七日
1/3
信長は、三男信孝に、四国への出陣を命じた。 →【重史012】
以下は、その時の書状である。
今度、四国に至って差し下すに就きての条々、
①一、讃岐国の儀、
一円、其方に申し付くべき事、
②一、阿波国の儀、
一円、三好山城守 (康長) に申し付くべき事、
③一、其外両国の儀、
信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事、
右の条々、聊(いささ)かも相違なく相守り、
国人等の忠否を相糺(ただ)し、
立置くべき輩は立置き、追却すべき族は追却し、
政道以下堅く申し付くべし、
④万端、山城守に対し、君臣父母の思いをなし、馳走すべきの事、
忠節たるべく候、
能々(よくよく)、其意を成すべく候也
天正十年五月七日 ( 朱 印 )
三七郎殿
(「寺尾菊子氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」)
→◎第58話② 第58話 ポ02②
→そ第78話④
①讃岐は、一国すべて、信孝に与える。
②阿波は、一国すべて、三好康長に与える。
③伊予・土佐については、信長が淡路島に着いてから決める。
④信孝は、三好康長の養子=後継者である。
以上、子を思う父の姿である。
①②④より
信長は、信孝に、讃岐と阿波 二ヶ国を与えた。
そういうことになる。
期待していたのだろう。
②より
信長は、長宗我部元親の「阿波南郡半国」を取り止めた。
「一円、三好山城守 に」=全域・全てを三好康長に、とある。
【参照】
【四国問題】 天正九年
【重史181】 阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし
③より
土佐については、未定とした。
「元親」の名が記されていない。
保留=未決ということ。
元親の諾否、未だ、明らかならず。
ただただ、時間が経過するのみ。
なれど、・・・・・。
「危うい」
きわめて、流動的な状況になって来た。
「信長、淡州に至って出馬の刻」
信長は、淡路島に、西国攻めの本陣を構えるつもりだった。
中国、四国、九州を睨んだ壮大な作戦となる。
おそらく、信長は、織田水軍を率いて、淡路島から、瀬戸内を西へ向かう
つもりだった・・・・・。
その先にあるのが、安芸の宮島 厳島神社。 →◎第58話② 第58話
信長は、平氏。
同社は、その氏神。
平清盛との因縁、等々。
歴史に残ったであろう、一大デモンストレーション。
華々しい大船団の様子が、目に見えるようである。
2/3
そもそも、光秀と元親の関係は、斎藤利三から始まった。
天正六年1578、元親は、信長と誼を通じた。*1
これを仲介したのが、明智光秀である。
この時、元親は、阿波を攻めていた。
信長は、これを承認。
元親の嫡男弥三郎に「信」の一字を与えた。
当時、信長は、大坂石山本願寺を攻めていた。
阿波の三好は、共通の敵。
信長は、長宗我部元親を味方につけた。
「三好の背後を衝く」
光秀の手柄である。
信長は、光秀を元親の取次とした。
元親は、四国制覇を目指していた。
両者の利害は、完全に一致した。
これ以後、暫しの間、良好な関係がつづく。
元親の妻は、石谷光政の娘(下)。*2
石谷頼辰は、斎藤利三の実兄であり、光政の養子=娘(上)婿。
つまり、
元親は、頼辰・利三兄弟と義兄弟の関係になる。
その縁によるものであった。
すなわち、
元親 → 石谷光政 → 頼辰 → 利三 → 光秀 → 信長 、という流れになる。
*1【重史179】「土佐国蠧簡集」
◎第50話①
*2【重史180】「元親記」
「明智の将来は、明るい」、はず、だった・・・・・。
ところが、
天正八年1580、本願寺が降伏すると状況が一変する。*1
信長の本格的な介入が始まった。
信長は、長宗我部元親に三好との和睦を命じた。*2
これすなわち、停戦命令。
三好康長は、長宗我部元親へ、挨拶状を送った。*3
天正九年1581、信長は、元親の領地を土佐一国と阿波南半国に定めた。*4
信長の四国政策が、次第に、鮮明化していく。
輪郭が見えてきた。
光秀は、石谷頼辰を土佐に派した。
元親は、これに承服せず。
交渉は、暗礁に乗り上げた。
*1 【重史219】 さる程に、大坂(本願寺)退城仕るべきの旨、『信長公記』
*2 【重史152】 三好式部少輔の事、此方に別心なく候、 「古証文」
*3 【重史153】 爾来(じらい=以来)、申し承らず候、 「古証文」
*4 【重史181】 阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし 「元親記」
以上のような背景があった。
そして、天正十年1582に至る。
3/3
中国出陣の時が、迫っていた。 →4月24日
「重ねて、一左右次第、出勢すべく候」 →【重史036】
そこに、突然、四国出陣命令。 →5月7日 1/3
総大将は、三七信孝。
「今度、四国に至って差し下すに就きての条々」 →【重史012】
これすなわち、光秀の「油断」。
妹(妻木氏)、亡き今。 →【重史007】
気づくのが、遅すぎた。
知らぬ間に、知らぬところで、事は進行していた。
迂闊であった。
光秀は、蚊帳の外。
「外された」
そういうこと。
光秀は、信長の性格・気性を知りつくしていた。
信長は、絶対専制君主。
誇り高い男。
決して、「逆らってはならぬ」のである。
光秀は、このことを肝に銘じていた。
→【注ポ04】 【光秀という男】⑨㉑ 目次 6/7 目
→【信長という男】③⑨
信長は、西国攻めに出陣するつもりだった。 →5月7日 1/3 【重史012】
「天下布武」の総仕上げ。
中国・四国・九州平定戦。
本陣は、淡路島。
「其外両国の儀、信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事」
それまでに・・・・・。
否、それでは遅すぎる。
ならば、その前。
光秀が、中国へ出陣するまでに。
頼辰が、間に合えば、全て、良し。
光秀の経歴にキズはつかず、信長の覚えは、これまで通り。
間に合わねば・・・・・。
元親との交渉は、失敗したとされ。
光秀の責任問題となる。
光秀は、元親の取次。
当然のこと。
となれば、
光秀は、信長の信を失い、失脚・・・・・。
明智は、没落する・・・・・。
光秀が、何よりも怖れること。 →3-1粛清の怖れ
ここに、その可能性が出て来た・・・・・。
ならば、いつ・・・・・。
今直ぐに、ではない。
信長は、合理主義者。
使えるだけ、使った、その後で・・・・・。
信長は、忍耐強く、執念深い。 →【注ポ11】【重史167】
このことを決して忘れない。
根に持つタイプ。
後で、必ず、蒸し返す。
佐久間信盛を見よ!! →3-1粛清の怖れ
信長は、重臣といえども、容赦しない。
粛清は、ある日、突然、訪れる。
信盛は、全く、予期していなかった。
信長は、不意を衝く。
恐ろしい男なのである。
「隙」を見せてはならぬ、口実を与えてはならぬ、のである。
そればかりに、あらず。
光秀は、高齢だった。 2-3 光秀と光慶
年齢は、五十九±四歳ぐらい。
生年は、大永四1524±四年ぐらい。
「気力・体力の衰え」
誰もが通る道である。
人生の残り時間が、少なくなっていた。
「長くて五年」・・・・・。
おそらく、そのくらいの感覚だったのではなかろうか・・・・・。
嫡男光慶は、まだ、十三歳。 →そ第7話② 【重史014】
若すぎた。
光秀は、明智の将来に不安を感じていた。
【参照】
3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
そ第6話② そ小6 光秀は、大きな悩みを抱えていた。 テ6 ◎6 6
そ第7話① そ小7 光秀は、高齢だった。 テ7 ◎7 7
そ第7話② 十三歳 嫡男光慶は、若すぎた。 テ7 ◎7 7
そ第7話③ 他に光慶が登場する場面 史料 テ7 ◎7 7
光秀は、嫡男光慶を守らねばならなかった。
光秀にとって、家臣は、「宝」。
明智秀満と斎藤利三が、明智の柱石である。 →【人物】
光秀の亡き後は、彼ら二人が、中核となって、光慶を補佐することになる。
明智は、世代交代の時期に入りつつあった。
そう、考える。
そのために、光秀は、負の遺産と成り得るものを、全て、除去しておきたかった。
当然、である。
正に、明智の一大事。 →5-1 勝利の余韻 4月24日
→5月7日 1/3 【重史012】
光秀は、追い込まれた。
心の内は、焦燥感。
なれど、表には出さず。
平静を装う。
頼みの綱は、石谷頼辰。
土佐は、僻遠の彼方。
今頃は、・・・・・。
早い帰還を祈るのみ。
【参照】【四国問題】 十 5月17日
そ第78話⑨ そ第11⑩02 ◎第147話② 第147話
斎藤利三は、土佐の問題に強い責任を感じていた。 →【重史174】
利三が、土佐の空然(石谷光政)に送った書状(天正十年一月十一日付)を見れば、そのことがよくわかる。
「弥(いよいよ)、始末、然るべく様に」
「万事、御異見、尤もに、存じ候」
そういうこと。
君臣ともに、一枚岩。
二人は、強い絆で結ばれていた。
利三の年齢については、よくわからない。
だが、その娘 お福=後の春日の局(第三代将軍 徳川家光の乳母)の生年は、
天正七年1579とされる(「国史大辞典」) 。
したがって、山崎の合戦時=天正十年1582は、4歳。
また、この戦いに参戦した兄がいたらしい。
とすれば、少なくとも、14~5歳年長。
これらのことから、大雑把であるが、利三の年齢は、40代前半ぐらい
だった、と考える。
如何、だろうか。
【参照】
【時は今・・・】 目次
0521 目 0526 目 0527 目 0528 目 0529 目
本能寺への道 1 2 3 4 5
本能寺への道1
そ第78話① 性格・人格・人間性の形成
そ第78話② そのような時代
そ第78話③ 四月二十一日 同二十四日
そ第78話④ 事態急変 五月七日
そ第78話⑤ 同十五日
そ第78話⑥ 「足蹴事件」
本能寺への道2
そ第78話⑦ 秀吉は備中に 同十七日
そ第78話⑧ 石谷頼辰は土佐に 同二十一日
そ第78話⑨ 土佐は僻遠の彼方 所要時間
本能寺への道3
そ第78話⑩ 同二十六日
そ第78話⑪ 分岐点 選択肢は二つ
そ第78話⑫ 同二十七日
本能寺への道4
そ第78話⑬ 同二十八日
そ第78話⑭ 同二十九日 上洛
そ第78話⑮ 同日 亀山 二人揃った
本能寺への道5
そ第78話⑯ 六月一日 出陣
そ第78話⑰ 同日 公家参集
そ第78話⑱ 同日、夜
光秀は、決断した。
【四国問題】
天正八年 天正九年 天正十年 目次
【四国問題 概要】
天正八年 天正九年 天正十年
←重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次
←テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次
←【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
←その一因 目次大 概説大 目次中
←3光秀と光慶
(1)光秀の素性
(2)光秀の年齢
(3)光秀の嫡男
←見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
←【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
←【ここがポイント!!】
⇒ 次へつづく
