本能寺の変1582 【重史247】 『日本史』 №6-045 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史247】 『日本史』 №6-045
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史247】 №6-045
①きわめて気品のある有名なある行事を開催しようと欲した。
②華麗な出立ちの七百人武将が集うことになり、
③群衆の数は、・・・二十万人に近いと言われる。
④絢爛豪華な光景は生涯かつて見たことがないものだ、
⑤内裏も姿を見せていた。
⑥桟敷に似て、よく設備された立派な場所をわざわざ彼に提供した。
⑦濃紅色のビロードの椅子を贈呈していた
⑧それを四人の男の肩の高さに持ち上げさせて、
⑨一度馬から降りて椅子に座って見せ、
『日本史』
天正九年1581、二月二十八日。 158100228
フロイスの見た「京都馬揃え」。
その著書『日本史』には、次のように書かれている。
(信長は)
その栄光を示すために、きわめて気品のある有名なある行事を開催しよ
うと欲した。
そのため、彼の領国の全ての君侯と武将たちは、晴着をまとい、できう
るかぎり豪華な出立ちで、都で催される試合に臨むためにそこに集合し
た。
「武将、七百人」
したがって一般に市(=まち)で噂されているところによると、
このために囲いが作られ、
装飾された競技場には、飾り具をつけた馬にまたがり、
各人華麗な出立ちの七百人武将が集うことになり、
「群集、二十万人」
これまで、見たことがない程の人出。
大賑わいだった、ということである。
諸国から見物のために同所に集る群衆の数は、
皆の判断によると二十万人に近いと言われる。
「絢爛(けんらん)豪華」
ヴァリニャーノは、その光景に驚嘆している。
巡察師は、入場者が身につけている大量の金と絹が織りなす絢爛豪華な
光景は生涯かつて見たことがないものだ、と語っていた。
「天皇、御叡覧」
そこには、この催しを見物するために参集した他のすべての高貴な男女
や僧侶たちとともに、内裏も姿を見せていた。
信長は、ヴァリニャーノ一行のため桟敷(さじき)を用意した。
「高台から見物できる」
「よく設備された立派な場所」
すなわち、貴賓席。
信長の厚遇ぶりがよくわかる。
信長は、巡察師が司祭、修道士全員といっしょにこの催しに列席するよ
うに特に命令し、
そのために高台から見物できる桟敷に似て、よく設備された立派な場所
をわざわざ彼に提供した。
ヴァリニャーノ一行は、馬揃えを観覧した。
司祭らは、信長が抗弁できる相手ではなく、
とりわけ
このようなことはキリシタンたちにはきわめて特別な好意であると受け
取られていたし、
また
その行事では競技をしながら、用意されている柵に沿って馬を走らせる
だけのことであったので、司祭らはその招待を断るわけにはいかなかっ
た。
「ビロードの椅子」
ヴァリニャーノは、上洛時に、信長に拝謁している。 →5/x 【重史242】
その時のことであろう。
さらに(断わりきれない)いま一つの理由は、
巡察師が信長を訪問した際、
日本の習慣に従って、かねてこの目的のために
シナ(マカオ)に住んでいる敬虔なポルトガルの婦人某が、
彼(巡察師)に与えた金の装飾を施した濃紅色のビロードの椅子を贈呈し
ていたことである。
信長は、これを大いに気に入った。
『信長公記』に、「八番、御曲彔持ち四人」とある。 →7/x 【重史243】
日本では珍品であり、ことにこうした時期に贈呈されたということもあ
って、
信長はこの椅子をことのほか喜び、
自分の入場に威厳と華麗さを加えるために、
それを四人の男の肩の高さに持ち上げさせて、自らの前を歩かせた。
信長は、誇り高い男。 →【信長という男】 目次 2/5
己が天下の支配者であることを、広く世に知らしめた。
そして行事の最中、彼の身分を誇り、その偉大さを表示するために、
一度馬から降りて椅子に座って見せ、他よりも異なる者であることを
示した。
(『日本史』)
【引用】【京都馬揃え】【さらなる夢】
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