本能寺の変1582 【光秀という男】 結論 8/x №6-044 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【光秀という男】 結論 8/x №6-044
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1時代の風潮 2二人の個性 3光秀の苦悩 4武田の滅亡 5信長の油断
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【光秀という男】 目次
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【光秀という男】 結論 8/x №6-044
近隣諸国の大小名も、参加した。 →【重史245】
彼らの出で立ちもまた、華やかなものだった。
馬揃えは、辰の刻から未の刻(8時頃~14時頃)まで行われた。
中でも、信長の三人の息子たちは、特に、華やかさが際立った。
→【重史246】
信忠(嫡男)、弘治三年1557の生まれ、この年25歳。
信雄(二男)、永禄元年1558 〃 〃 24歳。
信孝(三男)、同年 〃 〃 24歳。
信長は、大衆に絶大な人気があった。 →【重史246】
「天下安泰」
人々は、世の平和を実感していた。
すべては、信長のおかげ。
貴賤群集の輩(ともがら)、かゝる目出たき御代に合ひ、
天下安泰にして、
黎民(れいみん=庶民)、烟戸(かまど)さ(鎖)ゝず、
生前の思ひ出、有りがたき次第にて、上古・末代の見物なり。
【重史246】(『信長公記』)
正親町天皇は、大そう御喜びになられた。
「十二人の御勅使を以て」、「忝くも、御綸言(りんげん)」。
信長の功績は、きわめて大きい。
「信長の御面目」、「勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず」。
信長は、本能寺に帰った。
「晩に及び、御馬を納められ」、「本能寺に至つて御帰宅」。
めでたし、めでたし。
「千秋万歳、珍重々々」
【重史246】(『信長公記』)
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